2023.6.4

新しい霊によって仕える…」 

          ローマ7:1-6


 新しく神の民とされた者の生き方を、パウロは「結婚の比喩」を使って説明します(1コリント9章「使徒たち結婚」)。クリスチャンは悪い夫と死別して良い夫と再婚した妻のようだと語ります。

 パウロ自身が「律法を知っている」者ですが、それは「人を生きている間だけ支配する」という限界があると言います。悪い夫でも「夫の生存中は夫に結ばれて」いますが(DVの夫でも!)、「夫が死ねば、夫の律法から解放され」るので、「他の男のものになっても姦淫の女にはなりません」と奇抜な発想をします(→使徒8章「ステファノの処刑に賛成したパウロ」)。古い「罪」という夫が死んで、再婚してもくなったのです。

 パウロは「きょうだいたち」と呼んで、「あなたがたも、キリストの体によって、律法に対して死んだのです」(十字架の主!)と断言し、それは「死者の中から復活させられた方のものとなり…神に対して実を結ぶようになるため」(復活の主!)だと語ります(→エフェソ5章「キリストと教会の結婚」)。「律法の束縛が断ち切られたのは…好き勝手な生活をするためではなく…キリストに従う者になるためであった。」(カルヴァン)

 かつて「肉にあったときは…死に至る実を結んでいた」のですが、今は「自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり…解放され」たのです。それは本当に自由な生活です。そして今は「古い文字(律法)によってではなく、新しい霊(聖霊)によって仕えるように」なっています(→6章「洗礼と新生」)。優しい夫に喜んで仕える妻のようです。

 パウロは「新しい霊によって(奴隷のように)仕える」と、新しい夫に対する妻の態度を語ります。「主よ、御手もて引かせたまえ」(讃285番)と歌いつつ、「いかに暗く、険しくとも」ついて行けるのです。










2023.6.11


罪は戒めによって機会を捉え…」 

          ローマ13


 これまではクリスチャンとしての生き方について、前向きな言い方をして来たパウロですが、ここからは罪の問題を取り上げます(→ルター「罪赦された罪人」)。あまり楽観的になって罪に誘われないで欲しいのです。

 クリスチャンになる前の私たちは「律法による罪の欲情(パッション)が五体のうちに働」いていました。それでは「律法は罪なのか」と問うと「決してそうではない」と答え、「律法が『貪るな』(第十戒)と言わなかったら、私は貪りを知らなかった」と今のパウロは自覚しています。「罪は戒めによって機会(チャンス)を捉え…貪りを起こし」たのです(創世記2章「善悪の知識の木から食べるな」→3章「取って食べた」)。

 かつてのパウロは「律法なしに生きて」いました(→フィリピ3章「律法の義に関しては非の打ちどころない。しかし「戒めが(聖霊によって)来たとき、罪が生き返り…私を欺き…私を殺した」のです(→使徒26章「突き棒を蹴ると痛い」→ヨハネ16章「聖霊が世の罪を明らかにする」)。「パウロはキリストの御霊(聖霊を持たないでいた時…仮面に過ぎない義の外観に気をよくしていた。」(カルヴァン)

 結論としては、「律法そのものは聖なるものであり…(具体的な)戒めも聖なるもの、正しいもの、善いもの」です。「善いものが私に死をもたらすものとなった」わけではなく、「罪は罪として現れるために、善いものによって私に死をもたらし…罪は戒めによってますます罪深いものとなり」と、ちゃんと役目を果たすのです(ガンを告知する医者!)。

 クリスチャンにとっても「罪は…機会を捉え」てやって来るので、油断は禁物です(→Ⅰペトロ5章「悪魔が獅子のように」)。「檻を離れ…さまよう羊」(讃247番)にならないように「父の教え」を学ぶ者は幸いです。








2023.6.18

私はなんと惨めな人間なのでしょう…」 

          ローマ1425


 パウロはクリスチャンになった頃の自分の罪を語った上で、さらに今の自分の弱さを告白します(→Ⅱコリント12章「体の棘」)。クリスチャンにも罪との戦いがありますが、それに負けないで欲しいのです。

 「私たち(クリスチャン)は、律法は霊的なものであると知って」います(→走り高跳びの高いバー)が、「私(パウロ)は肉の人で…罪の下に(奴隷として)売られて」います(→ヨハネ3章「肉から生まれたものは肉」。「自分が望むことを行わず…憎んでいることをしている」自分に愕然とするパウロです(→「貪りの罪」→権力欲や支配欲?)。

 模範生のようだったパウロが「自分の内には…善が住んでいない」と言うだけでなく、「善をなそうとする自分に…悪が存在するという法則」を発見するのです。「私の五体には(神の律法とは)異なる法則があって、心の法則と戦い…罪の法則のとりこ(捕虜)」にしているのだと告白する正直なパウロは好感が持てます(→福井の弱い殿様柴田勝家)。

 彼はついに「私はなんと惨めな人間でしょう」と叫び、「誰が私を救ってくれるでしょうか」と訴えます。「最悪の状態になった時、パウロはただ声をあげて助けを求めました。…見よ、白い帆をあげた救助船が…船首にはイエスがおられます。」(シンプソン) 主を見た時にパウロは「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」と勝利の叫びをあげるのです。「信仰者たちは肉の内に宿る限りその目標点に達しないが…その肉体が取り去られる日まで常にコースを進んでいる。」(カルヴァン)

 自分の弱さを知っているパウロは、私たちの側に一緒に立ってくれています。「われ罪人の頭なれど」(讃249番→Ⅰテモテ1章)と告白しつつも、「幹に連なる小枝のごとく」主エスにつながっている者は幸いです。







2023.6.25


キリスト・イエスにある者…」 

        ローマ17


 5~8章でパウロは「福音に生きるとは何か」を語ります。7章では罪との戦いについて語りましたが、8章からは「救いの喜び」を語ります。クリスチャンは三位一体の神と共にあって喜んで生きるのです。

 「従って…キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません」とパウロは断言します(→5章「アダムの罪の結果」)。「神は御子を…罪深い肉と同じ姿で世に遣わし…処罰された」からです(→ヨハネ3章「神は独り子を…」)。御子に従う者は「肉にではなく霊に従って歩む」者になり、「律法の要求が満たされた」のです(獲得した学位!)。

 別な面から言うと「神の霊(聖霊)があなたがたの内に宿っているなら…霊の内にあり…キリストがあなたがたの内におられる」のです(→シンプソン「内住のキリスト」→ガラテヤ2章)。「ここでパウロはキリストが私たちの内に宿られる方式を示す。」(カルヴァン) 「イエスを死者の中から復活させた方(神)の霊が…宿っているなら…復活させた方は…その霊によって…死ぬべき体をも生かしてくださる」と力強いのです。

 クリスチャンは「肉に従って生きるという義務(義理!)を…負ってはいない」ので、「霊によって体の行いを殺す」ことによって「神の子」として生きます(実子ではなく養子!)。「子としてくださる霊を受け…『アッバ、父よ』と呼んで祈ることができます(→「主の祈り」の冒頭)。そのうえに「神の相続人」でもあります(→ルカ15章「放蕩息子」)。

 今の私たちは間違いなく「キリスト・イエスにある者」です(→「ハイデルベルク信仰問答第1問「私は…キリストの者」。「ああ嬉し我が身も主の者となりたり」(讃529番)と救いの喜びを歌う者は幸いです。