2023.7.2


私たちに現れるはずの栄光…」 

         ローマ8:17-25


 クリスチャンになっても皆がすぐに天国に行くわけではないので(→ルカ23章「今日一緒に楽園に」、苦しみもあります。パウロは、この世界の救いが完成するで、私たちは希望をもって忍耐すべきだと語ります。

 「キリストと共同の相続人となった私たちは、「キリストと共に苦しむなら、共に栄光を受ける」という希望があります。パウロにしてみれば、「今のこの苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光(→マルコ10章「主の右と左の席」)と比べれば、取るに足りません」と改めて「思う」(→6章「考えなさい」→「朝三暮四」の損得勘定)のです。

 人間の苦しみだけでなく、パウロは自然界にまで目を向けます。「被造物が虚無に服したのは…服従させた方(神)によるのであり…滅びへの隷属(→創世記3章「土は呪われ」)から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入るという希望」が約束されています。今は「被造物全体が…産みの苦しみを味わって」いますが希望があります(→クランフィールド「ドラマの主役である人間が役目を果していない壮麗な舞台装置」!)。

 クリスチャンも「体の贖われることを、心の中に呻きながら待ち望んで」います(Ⅰコリント15章「私たちは…変えられます」)。そして「まだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは忍耐して待ち望む」ことが出来るのです。「私たちが良き状態についての望みによって自ら慰められる時、現在の悲惨さについての感覚は緩和され、和らげられて、それを担うことは、さほど厳しいことではなくなるのである。」(カルヴァン)

 「玉座の中央におられる子羊が彼らの牧者」(黙示録7章)とあるように、私たちには究極の慰めが約束されているので、忍耐できるのです。天使たちと共に「イエスの御名の力」(讃162番)を賛美する者は幸いです。













2023.7.9


「もっと主に似る者に…」 

           フィリピ2:1-5


 パウロがフィリピの教会にこの手紙を書いたのは、教会員の間に不一致があるのを知って心配したからです(→4章「二人の女性」)。彼らが心を一つにするためには、主イエスの心に似る者になる必要があるのです。

 「そこで…キリストによる励まし…慈しみの心があるなら…同じ思いとなり…私の喜びを満たしてください」と訴えます。そして「へりくだって…他人のことにも注意を払いなさい」と、教会員同士の一致が必要だと言います(→『健康な教会の9つの印』→「健康な交わりの存在」)。そのために「キリスト・イエスにも見られる」ところの「心がけ」を持つ必要があります(私たちのジレンマ「信仰と行い一致困難」!)。

 パウロの祈りは「あなたがたの愛が…あらゆる洞察を身に着け…豊かになる」(1章)ことですが、そのためには「キリストにある」ということがカギになります(→ヨハネ15章「ぶどうの木」)。教会のための奉仕はボランティア(無償奉仕者)であるたに、自分の手柄を誇ることになりやすいので、争いが起こるのです(→香港の教団理事長として経験したトラブル→ウィン・ウインの解決になるのは難しい)。

 パウロは「キリスト賛歌」(当時の賛美歌)を引用して、その生涯が「Vの字のようであったと言います。キリストは神の御子ですが「神と等しくあることに固執」しないで「十字架の死に至るまで従順」でした。前半は「へりくだり」(謙卑)の生涯であり、後半は「引き上げられた」(高挙)生涯であったとして、それを私たちのモデルとして示すのです。

パウロは3つのことを述べて、私たちが「もっと主に似る者になって欲しいと語ります。①お互いに一致を保つように努力すること。②クリスチャンとしての愛の力を持つこと。③キリストが持っておられた心を求めること。そうすることで不一致と不調和を解決できるのです。

    (朱牧師の説教要旨 文責・生田)











2023.7.16

万事が共に働いて益となる…」 

         ローマ82630


 クリスチャン生活は楽しいことばかりではありません(→結婚生活「山あり谷あり」)。パウロはしかし、苦しみがあるけれども、自分だけで耐えるのではなく、三位一体の神が助けて下さるから大丈夫だと語ります。

 先ず「霊(聖霊→口語訳「御霊」→新共同訳「“霊”」)もまた…弱い私たちを助けて(一緒に重荷を負って)」下さると語ります。苦しみの余り祈ることさえ出来ない時でも「呻きをもって執り成して」下さいます(→「喝采」→「祈る言葉さえなくしてた」)。「人の心を見極める方(神)は、霊の思い」を知っておられ、聖霊は「聖なる者(クリスチャン)のために執り成し」て下さいます(→サムエル上1章「ハンナの祈り」)。

 次に父なる神は「ご計画に従って召された者(クリスチャン)」すなわち「神を愛する者たち」のために「万事が共に働いて益(最善)となる」ようにして下さいます(→「被造物全体」を見ているパウロ)。そのこと「私たちは知っています」と断言するパウロです(私たちの経験!)。

 最後に御子についてパウロは、「神は前もって知っておられた者たち(クリスチャン)を、御子のかたち(→創世記1章「神のかたちとしての人間」に似たものにしようとあらかじめ定め」て、「多くのきょうだいの中で長子」とされたと語ります。「長子が家名を担って立つのと同じく、キリストは至上の地位に着かれた。」(カルヴァン) こうして「あらかじめ定めた者を召し出し(信仰者とし)…義とし(罪を赦し)…栄光をお与えに(栄化)」なりました(→朱牧師の置土産「Vの字の後半は高挙」)。

 パウロが「万事」を主語にしたのは文法的には乱暴ですが(→口語訳「神は…共に働いて」彼の率直な気持です(→文語訳「凡ての事相働きて」)。神に委ねて「御手もて引かせたまえ」(讃285番)と歌います。

 









2023.7.23


神が味方なら…」 

        ローマ83139


 8章の締めくくりで、パウロは改めて福音がどんなに素晴らしいものかを語ります(→1章「福音は…神の力」)。彼は特に、福音を与えてくださった神の愛がどんなに大きく、確かなものであるかを語るのです。

 1章からの結論を、「何と言うべきでしょう」として、彼は「神が味方なら、誰が私たちに敵対できますか」と言います。神は「私たちすべてのために御子をさえ惜しまず死に渡された方」です(→創世記22章「イサクを捧げるアブラハム」)。「やがて神ご自身が経験される苦しみを、アブラハムがここで味わうのです。」(→「アブラハム物語」の説教)。

「神に選ばれた者(クリスチャン)たち」を苦しめる問題があります。①「(罪ありとして)訴える」こと、②「(救いについて)罪に定める」こと、③キリストの愛から引き離す」ような「苦難…行き詰まり…迫害…飢え…裸…危険…剣」など(→Ⅱコリント11章「パウロの経験」)、「死にさらされる」(詩44篇)ことさえも、「誰がキリストの愛から私たちを引き離すことができましょう」と言います(→ヨハネ16章「世に勝った」)。

 ここに至ってパウロは「私たちを愛してくださる方によって勝って余りあります」と勝利を宣言し、「私は確信します」として、「死も命も…現在のものも将来のものも(→二ケア信条「見えるものと見えないものの造り主」)…私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から…引き離すことはできない」と断言します。「パウロは今や、父なる神には愛の源泉を帰し、キリストからその愛が流れ来ると言うのである。」(カルヴァン)

 「神が味方」というのは「私たちの側にいてくださる」という意味です(弱いチームに強い選手が加わるように!)。ルターと共に「神は我が櫓…」(讃美歌267番)と歌って、信仰の戦いをする者は幸いです。










2023.7.30


肉による同胞のためなら…」 

           ローマ9:1-5


 9-11でパウロは、「福音に生きるのは誰か」を語ります。福音の素晴らしさを語って来たのですが、ユダヤ人の多くが信じないことを嘆き、信じて欲しいと願うのです(→クリスチャンが1パーセントの日本人)。

 パウロは「キリストにあって…偽りは言いません」と信仰者として語ります。自分の心の中に「深い悲しみ…絶えない痛み」があって、その重さに押しつぶされそうです(「異邦人の使徒」として「痛くもない腹を探られる」パウロ→ヨハネ1章「民(ユダヤ人)は言を受け入れない」)。

 彼自身は「肉による同胞(ユダヤ人)のため」には、「キリストから離され、呪われた者(アナセマ)となってもよいとさえ思って(祈って)」いるほどです(→出エジプト32章「金の子牛」→「書き記された書から私を消してください」と言うモーセ)。「ユダヤ人を救いに入れるために…断罪を引き受けようとしたのはパウロの熱愛の印である。」(カルヴァン)

 ユダヤ人は「イスラエル人」(→創世記32章「神と格闘する者」)と呼ばれ、「子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝(レビ記!)、約束は彼らのもの」(→3章「ユダヤ人の優れた点」)です。何よりも「肉によればキリスト(メシア)も彼らから出られた」のです。そして、「キリストは万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神」(聖書協会共同訳の別訳)であることが私たちの希望です(→11章「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」)。「5節後半をキリストへの言及ととる見方の根拠は圧倒的である。」(クランフィールド) 

 「主イエスを信じなさい…あなたも家族も救われます」(使徒16章)という約束が与えられています。どういう形でそれが実現するのか分かりませんが、信じて「注げ命の真清水を」(讃217番)と歌う者は幸いです。