2022.5.1

 

イエスパンを取り…」

  ルカ228―35


 クレオパともう一人の弟子(彼の妻?→レンブラント「エマオのキリスト」)が主イエスを家に迎えて食事を共にする中で目が開けます。主は、私たちの信仰がさらに強く深くなるように願っておられます。

 一行は目指す(エマオの)村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる」様子です(もう十分と思われた?)。しかし二人が「無理に引き止めたので、イエスは…家に入られ」ます(→無理強いする信仰→創世記32章「祝福してくださるまでは放しません」)。

 食事の席で「イエスは(主人役を務めて)パンを取り、祝福して裂き、二人にお渡しに」なります(→9章「五千人に食べ物を与える」)。「キリストは弟子たちが慣れている祝福の祈りをすることによって気付くようにされた。」(カルヴァン) その時「二人の目が開け、イエスだと分」かります(→16節「目は遮られていて」)。すると「その姿は見えなく」なります(→ヨハネ20章「私に触れてはいけない」)。二人は「私たちの心は燃えていた」と喜びに溢れます(→Ⅰペトロ1章「見てはいないのに」)。

 もう夜でしたが「すぐさま二人は立って、エルサレムに戻」り、「十一人とその仲間が…主は本当に復活して、シモン(ペトロ)に現れた」言っているのを聞きます(→Ⅰコリント15章「ケファに現れ」)。この二人も「道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった」ことなどを話して、互いに励まし合います(→「オンライン礼拝」で足りないもの→信仰者同士の励まし合い!)。

 主は聖餐を制定して、私たちの信仰を強くされます(→22章「イエスはパンを取り…」)。「わが主よ、今ここにて」(讃205番)と歌いつつ聖餐に与り、「御国にて祝う」日を待ち望む者は幸いです。








2022.5.8


これらのことの証人…」

  ルカ236―53


 ルカ福音書の最後で、復活の主は伝道のことを語られます(→Ⅱテモテ4章「時が良くても悪くても」)。主はご自分が確かに生きていることを教えて、この喜びのメッセージを伝える者になって欲しいのです。

 日曜日の夜、弟子たちがいる所に「イエスご自身が彼らの真ん中に立」たれたので、「彼らは恐れおののき、(体のない)霊を見ているのだ」と自分たちの目を疑います(→ヨハネ20章「主を見て喜んだ」)。「彼らが喜びのあまりまだ信じられない」有様なので、「焼いた魚」を食べて見せられます(→椎名麟三『私の聖書物語』→「神のユーモア」)。

 主は「私についてモーセの律法と預言者の書と詩編(旧約聖書!)に書いてあることは、必ずすべて実現する」として、主の救いが「エルサレムから始まって、すべての民族に宣べ伝えられる」とし、弟子たちこそ「これらのことの証人である」と言われます。「キリストは弟子たちに信じられないほどの名誉を与えられる。」(カルヴァン) 「父が約束されたもの(聖霊)をあなたがたに送る」ので「都にとどまっていなさい」と命じられます(→ヨハネ20章「息を吹きかけて」→ペンテコステ!)。

 それから40日後(→使徒1章「四十日にわたって彼らに現れ」)、主は弟子たちを「(オリーブ山のふもとの)べタニアまで連れて行き、(両)手を上げて祝福」されます(→祭司の祝福→牧師の祝祷)。主は「祝福しながら彼らをはなれ、天に上げられ」(→使徒信条「天に昇り」)ます。弟子たちは「イエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに戻り…神をほめたたえて」います(→私たちの礼拝→祝福への応答)。

 復活の主を見た弟子たちは、喜びに満たされて主の証人になります。「いともかしこしイエスの恵み」(讃502番)という祝福を受けた者は「世にある限り…語り伝えん(この物語を喜んで語ろう)と歌うのです。







2022.5.15



ヨセフは兄弟(たち)を見て…」

  創世記42


 エジプトに奴隷として売られたヨセフが総理大臣のような立場になっている所へ、兄弟たちが食料を買いにやって来ます。主なる神はヨセフを用いて、彼らが犯した罪を悔い改めさせようとされます。

 ヤコブに促されて兄弟たちはエジプトへ行き、「顔を地につけて、ヨセフにひれ伏し」(→37章の夢)ます。ヨセフは「兄弟(たち)を見て、彼らに気付き」ますが、「お前たちはこの国の内情を探りに来た回し者(スパイ)だ」と厳しい口調で責め、「末の弟(ベニヤミン)がここに来るまでは…」と言って監獄に入れます(彼らの罪に気付かせるために!)。

 そういう苦しみの中で、彼らは自分たちがヨセフにしたことを反省します。「弟が私たちに助けを求めたとき、その苦しみを見ながら、聞こうともしなかった」(→箴言21:13)と言うのを聞いて、「ヨセフは彼らから遠ざかって泣」きます。次男のシメオンが人質として残ることになり、ヨセフは「袋に穀物を満たし…銀を返」すなど、親切にして帰らせます。

 「カナンの地にいる父ヤコブのところへ帰って来」た兄弟たちの報告を聞いて、ヤコブは嘆きます。「ヨセフがいなくなり、シメオンがいなくなった」と言い、「今度はベニヤミンを私から取り上げようとする」と言って、「この子をお前たちと一緒に(エジプトに)下って行かせるわけにはいかない」と拒みます。「すべて私にばかり降りかかる」と、自分の苦しみは誰にも理解できないほどだと訴えます(→横田めぐみさんを思う父親)。「ヤコブは鉄のような心を持っていなかった。」(カルヴァン)

 誰でも自分が人を苦しめた事に気付くのは難しいのです(借金を返し忘れた経験!)。自分の罪に気付いて、「悩みの淵より呼ばわる」(讃258番→詩130編)者は幸いです。








2022.5.22

彼らはヨセフの前に立った…」

  創世記4334


 エジプトから持ち帰った食料を食べ尽くした頃の話です。ヤコブの息子たちは父を説得して、ベニヤミンを連れてエジプトへ行きます。主なる神はヨセフを用いてゆっくりと家族を和解へと導かれます。

 ヨセフが「弟(ベニヤミン)が一緒でないなら、私の顔を見ることはできない」と言ったので、それ承知できないヤコブをユダが誠意を込めて説得します。遂に納得したヤコブは「この地の名産を…その方への贈り物として…」と配慮し、「どうか全能の神が…憐れみ」と祈った上で、「(子ども)を失わなければならないのなら、失うまでだ」と主の手に全部を委ねます(→ルカ22章「私の願いではなく、御心のままに…」)。
 兄弟たちはベニヤミンを連れてエジプトへ行き「ヨセフの前に立った」のですが、彼が家の管理者に「屋敷に連れて行きなさい」というのを聞いて「怖くなって」しまいます(身に覚えがある彼ら!)。その管理者は「安心しなさい(シャローム)」と言って彼らを慰めてくれます。「彼はヨセフから宗教的な感化を受けていたのであろう。」(カルヴァン)

 ヨセフは兄弟たちに「年老いた父は元気なのか」と尋ね、「同じ母の子であるベニヤミンを見つめ」て、「弟懐かしさに胸が熱くなり、泣きそうになる」ほどです。食事の時、「エジプト人はヘブライ人と一緒に食事をすることができない」ので、「別々に出され」ましたが、「長男…末の子」の順番通りでした(ヨセフの配慮!)。「彼らはヨセフと共に飲んでいしれた」ほど楽しく過ごします(心のつかえが取れたヨセフ!)。

 別々だった兄弟たちが「ヨセフの前に立った」ことで、和解への道が開かれます(同じ土俵に立つ!)。「み恵み豊けき主の手」(讃294番)に導かれつつ、「主の手にすがりて(握って)」歩む者は幸いです。








2022.5.29


杯はベニヤミンの布袋の中から…」

  創世記34


 エジプトでヨセフの接待を受けて、カナンへ帰ることになった兄弟たちですが、ベニヤミンの布袋にヨセフの大切な銀の杯が見つかります。神はヨセフを用いて兄弟たちが彼を見捨てるかどうか、テストされます。

 カナンへ出発する兄弟たちの布袋にヨセフは細工をし、「私の杯、あの銀の杯を、末の弟の布袋の口に」入れるように家の管理者に命じます。翌日、出発した彼らを追いかけて、「あの銀の杯は…まじない(占い)をするときにお使いになるもの」だと詰問させます。主なる神は兄弟たちの心が良くなっているかを徹底的に調べられます(ガンの手術!)。

 身に覚えがない彼らは「杯が見つかれば…僕(奴隷)になります」とまで言いますが、「杯はベニヤミンの布袋から見つか」って、兄弟たちは驚きますユダが代表して「神が僕どもの罪を暴かれたのです」と受け入れます。「何か細工がされたのではないかと疑いつつも、その罰を神の隠れた裁きだと考えるのである。」(カルヴァン) ヨセフはベニヤミンだけを奴隷にするという寛大な条件を提示します(難しい二者択一!)。

 今のユダは「父が年を取ってから設けた子、末の弟」をどんなに愛しているか、その気持ちを理解できるので、「この子が一緒でなければ…父は死んでしまうでしょう」と思いやります。彼は自分を「この子の代わりに…僕(奴隷)として…この子は兄弟(たち)と一緒に(カナンへ)上らせてください」と申し出ます。かつては弟を溺愛する父を赦さなかった兄たちがすっかり変わっています(→37章「ヨセフを妬む兄弟たち」)。

 末の弟を見捨てるという選択肢もありましたが、兄たちはそれをしません(美しい心!)。「疑い迷いの闇夜」(讃385番)のような人生の中でも、「一つの目的(めあて)に向かいて進む」と歌う信仰者は幸いです。