2020.12.6

 

■「わたしと一緒に喜んでください…」

          ルカ1510


  主イエスは大切なことを教えるために譬え話をされますが、ここでは羊飼のイメージが用いられます(→詩23篇、ヨハネ10章)。主は迷った羊を連れ戻す羊飼であり、それを共に喜んで欲しいのです。

  「取税人や罪人(つみびと)たちが…イエスの話を聞こうとして近寄って」来るのを見て、「パリサイ人や律法学者たちがつぶやき」ます(→5章「レビという名の取税人」)。父なる神は罪人たちのことを「出来の悪い子ほど可愛い」と思う親のような気持で見ておられるです。それを教えるために「この譬」(単数)を話されます。

「百匹の羊を持っている者」はユダヤ人と神との関係です(→マタイ18章)。「いなくなった一匹」を捜し歩く羊飼として主イエスは来られました。「神は御子を迷う羊たちの羊飼に任命された。」(カルヴァン) 「見つけたら、喜んでそれを自分の(両)肩に乗せ」て帰ります(→ヨハネ10章「羊のために命も捨てる良い羊飼」)。さらに主は「わたしと一緒に喜んでください」と呼びかけられます。

 同じように、主は「銀貨(ドラクメ=約1万円)10枚」を大切に持っていた女性がその中の1枚をなくした時、「あかりをつけて家中を掃き」注意深く捜して、遂に見つけた喜びを話されます。「罪人が

ひとりでも悔い改める(帰って来る)なら、神の御使たちの前で喜びがある」のです(→訪問伝道の報告会「天と天使よ喜べ!」)。ここでも、「わたしと一緒に喜んでください」と呼びかけられます。

 救い出された者が喜ぶ以上に、救ってくださった御方が喜んで、両方の喜びが満ちているのが教会です。その救い主を迎えて、「ホサナ、ホサナ、ダビデの子」(讃130番)と賛美するのです。








 


2020.12.13


■「遠い所へ行き…」

        ルカ1516


  主イエスは、父なる神と人間との関係をもう一つの「放蕩(ほうとう)息子の譬」として語られます。羊や銀貨と違って、人間は意志をもって行動します。罪を犯した人間に早く帰って来て欲しいのです。

「ある人(神)にふたりの息子があった」という話ですが、二人とも問題があります。「父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください」と言ったのは弟息子です(→12章「父の遺産」)。本来は生前贈与はしないのですが、父親が「身代をふたりに分けてやった」のは、特別な恵みです(→創世記1章「地を治めよ」)。

弟息子は「幾日もたたないうちに…自分のものを全部とりまとめて(金に換えて)遠い所へ行き」ます。父親から自由になりたかったのです(→創世記3章「神のように善悪を知る者となる」)。「彼は神から離れたいという盲目的で熱狂的な野望を抱いて、完全な自由を楽しみたいと考えた。」(カルヴァン) 父親のコントロールを脱すると、「放蕩に身を持ちくずして財産を使い果し」」てしまいます。

 神から離れた人間の世界は自由なようですが、混乱します(ヒューマニズムの限界!)。「何もかも浪費してしまった」弟息子は現実に直面します。「その地方にひどいききんがあった」のも世界の現実です(新型コロナ!)。昔の仲間が世話をしてくれたのは、ユダヤ人が食べられない「豚を飼う」仕事であり、「いなご豆」(食糧用ではない)で空腹を満たしたいほどです(→創世記11章「バベルの塔」)。

 「遠い所」で苦しんでいる私たちを見て、「罪人を招いて悔い改めさせるため」(5:32)に神の御子は来られます。「ああ主のひとみ、まなざしよ」(讃243番)と歌うのは、やさしい御子の目です。








2020.12.20


■「父のところへ帰って…」

          ルカ1524

  

  「放蕩息子の譬」の後半で、主イエスは、人間の「悔い改め」(ヘブライ語「シューブ」→英語「リターン」)の大切さを語られます。父なる神は人間が悔い改めて帰って来ることを喜ばれます。

父から離れた生活の中で、弟息子は自分の考えが間違っていたことに気付き「本心(本来の自分自身)に立ちかえ」ります(→創世記1章「人間の創造」)。父のもとでの幸せな日々を思い出し、「父のところに帰って…あなたのむすこと呼ばれる資格はありません」と言おうと決心するのです。彼は「あなたに…罪を犯しました」と告白するつもりです。すでに父と子の関係は心の中で回復しています。

 彼はその決心を実行に移します(→ローマ10:10「心に信じて義とされ、口で告白して救われる」)。彼は「立って…出かけ」ますが、「遠く離れていたのに、父は彼をみとめ」ます(「岸壁の母」!。「哀れに思って(内臓を揺り動かされて)走り寄り…接吻」するのです(→レンブラント「放蕩息子の帰還」)。「神は、罪人が過ちを告白するや否や、ご自分の方から出向かれる。」(カルヴァン)

 すでに父とむすこの心は結ばれています。「(しかし)むすこは…父よ…罪を犯しました」と告白します(→洗礼式・信仰告白式)。それでもう十分なので、父は「最上の着物を…肥えた子牛を…」とむすこの帰宅を喜んで宴会を催し、「死んでいたのに生き返り…いなくなっていたのに見つかった」と大喜びするのです(教会の姿!)。

 放蕩息子は「(私の)父のところへ帰って」と決心します(→「主の祈り」→「我らの父」と呼ばせてくださる主イエス)。父なる神の家に招かれる主を「諸人こぞりて迎え」(讃112番)るのです。







 



2020.12.27



       

■「あなたはいつもわたしと一緒にいる…」

        ルカ152532


  「放蕩息子の兄」の話ですが、「孝行息子」のように見える彼には心の中に問題があります。主イエスは、私たち人間が、形だけ神の近くにいるのではなく、心から近くなって欲しいのです。悔い改めて帰って来た弟息子のために、父親は大喜びで祝宴を開きます。「兄は畑にいた」のですが、「音楽(シンフォニア)や踊り」が始まる頃にやっと帰り、召使いから「あなたのご兄弟がお帰りになりました」と聞いても一緒に喜ぼうとはしません。弟息子は「帰って来て良かった」と幸せなのに、兄息子は幸せではありません。

「兄はおこって」います。弟に対しては、放蕩者の「このあなたの子」を兄弟とは認めません。「誰でも(信仰の)兄弟が神の好意によって受け入れられる事を呟くのは正しくない。」(カルヴァン) 父に対しては、「何か年もあなたに(奴隷のように)仕えて…」と自分の正しさを誇ります(パリサイ人!)。それなのに「友だちと楽しむために子やぎ一匹」ももらえない、と不満だらけです。

 「家にはいろうとしない」兄息子に、「父が出てきてなだめる(懇願する)」のです(神の愛!)。「(愛する)子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいる」のに、「このあなたの弟」(信仰の仲間!)は父のもとにやっと帰って来たのだから「喜び祝うのはあたりまえ」ではないか、と説得します。後になって、パリサイ人パウロは「なぜわたしを迫害するのか」(使徒9:4)という主の招きに応えます。

 兄息子にとっては、いつも父なる神と共にいる生活(→マタイ18「ふたりまたは三人が集まる所」)が喜びでないことが問題です。主イエスは、「天なる喜び」(讃352番)を与えるために来られます。