2021.2.7


 「人の子が現れる日…」   

              ルカ172237

  

  主イエスは「神の国は…あなたがたのただ中に…」とその現在性を強調されましたが、ここではその未来性を語られます(再臨!)。弟子たにとって、未来のために今の生活の中で備えていることが大切です。

 彼らが「人の子(主イエス)の日を一日でも見たいと願」う時が来るでしょう(教会の苦難!)。「彼らはキリストの現臨を経験している間に、間もなく深刻な動揺の時が来ると学ぶべきであった。」(カルヴァン) 再臨の主は「いなずまが…天の端へとひらめき渡るように」全世界を照らす光として来られますが、その前に十字架で苦しまれたように、弟子たちも苦難の時を経験しなければなりません。

 主は2つの良い見本を示されます。「ノアが箱舟にはいる日」まで、彼は人々を招きますが、彼らは聞かず「洪水が襲ってきて…滅ぼし」ます(→創世6章以下)。「ロトがソドムから出て行った日」にも人々はついて行かず「火と硫黄とが…滅ぼし」ます(→同19章)。「人の子が現れる日」も同じようになるでしょう(災害の記憶の風化!)。

  悪い見本としては、「ロトの妻のことを思い出しなさい」として、「あとへもどるな」と言われます(塩の柱!)。「ふたりの男が…ふたりの女が…ひとりは取り去られ…残される」のは信仰による備えの問題です(→マタイ25章「十人のおとめ」)。終末は「どこであるのですか」と問うべきではありません。「死体のある所には…はげたかが集まる」という諺の通り、どこでも起こるのです(→マタイ24章)。

 主は一人でも多く救うために「獄に捕らわれている霊どものところ下って」(Ⅰペテ3章)行かれます(「シンドラーのリスト」!)。私たちも「目覚めよわが魂」(讃370番)と歌いつつ走りましょう。









 


2021.2.14




■「日夜叫び求める選民のために…」          

        ルカ18


  主イエスの再臨と神の国の未来性を語られたあとで、主は弟子たちに信仰をもって神の国を待つ者(ノアやロトのような!)になって欲しいと言われます。そのためには祈ることが大切になります。

  主は「失望せずに常に祈るべきこと」(→Ⅰテサ5章「絶えず祈れ」)「弟子たちに」(協会共同訳)譬で話されます。その譬えの主人公は「神を恐れず、人を人とも思わぬ裁判官」です(→16章「不正な家令」)。奇妙なことに、それが神様を表しています(悪いイメージ!)。

 もう一人の登場人物は「彼のもとにたびたびきて…願いつづける」やもめです(→7章「ナインのやもめ」)。彼女が「わたしを訴える者をさばいて」欲しいと頼んでも、すぐには応じませんが、「このやもめが…面倒をかけるから」と「彼女のためになる裁判をしてやろう」と気持変えるのです。それは彼女が「ひっきりなしにやって来て目の下を打ちたたく」(新改訳)からだと言います(子どもに負けて喜ぶ親のような神様!)。粘り強く祈るべきです(→11章「パンを借りる友人」)。

 主は弟子たちに「不義な裁判官の言っていること」と比べて、「まして神は、日夜叫び求める選民(教会)ために…すみやかにさばいてくださる」と励まされます(→Ⅱペテロ3章「千年は一日のごとく」。やがて主は「生ける者と死ねる者とを裁く」ために来られますが、「地上に信仰が見られるであろうか」と心配されます。「経験が証明する通り…少数者の中に信仰のひらめきは残っている。」(カルヴァン)

 少数でも「日夜叫び求める選民」の祈りに主は答えてくださいます(具体的に祈る手応え!)。主に向かって祈る者は、「安かれわが心よ」と歌いつつ、「み国はやがて来たらん」(讃298番)と待つのです。



2021.2.21


■「自分を低くする者は高くされる…」          

          ルカ1814


   主イエスは粘り強く祈ることについて「不義な裁判官」の譬を語られましたが、祈りについてもう一つの譬を取り上げられます。私たちが神に対してどういう態度で祈るべきかを教えようとされます。

 主ご自身が「祈る人」(→3章「洗礼」、11章「主の祈り」)であったので、他の人の祈りにも関心持っておられました(「一家言ある人」!)。「自分を義人だと自任して他人を見下げている人たち」(パリサイ人!)に対して主は「またこの譬をお話しに」なります。「ふたりの人が祈るために宮(エルサレム神殿)に上った」と、その様子を細かく観察しておられます(→21章「レプタを献げるやもめ」)。

 「パリサイ人は(堂々と)立って」祈ります。「わたしはほかの人たちのような貪欲な者…ではなく…一週に二度断食し…全収入の十分の一をささげています」と自慢します(→ピリピ3章「パウロの誇り」)。さらに「この取税人のような人間でもないことを感謝します」と比べています。彼は「ひとりで(自分自身に向けて)」語るだけで、神との対話ではありません(「お父さんは神様に教えているんだ」!)。

 それとは対照的に、取税人は遠く離れて立ち…胸を打ちながら…人のわたしをおゆるしください」と訴えます。「キリストは…取税人が神の憐れみに逃れたというこの一点を主張される。」(カルヴァン) 主彼が「神に義とされて自分の家に帰った」と断言されます。パリサイ人と違って、祈る前と後とでは変化しています(「伸び代がある」!)。

 「自分を高くする者…低くする者」は当時の諺でした(→14章)。

礼拝に来て、私たちは心を高くされて帰って行きます。「悩みの淵より呼ばわる」者が「恵みの御手」讃258番)を見出すのです









2021.2.28

      

■「神の国を受けいれる者…」          

        ルカ181530


   エルサレムへ上って行く」(31節)時が近づいて、主イエスは改めて神の国へ入る者を招かれます。多くの人たちに神の国へ入って欲しいのですが、そのためにはどうあるべきかを教えられます。

 「イエスにさわって(祝福して)いただくために、人々が幼な子ら(乳飲み児まで!)をみもとに連れて」きます。(→マルコ10章、マタイ19章)。弟子たちは主を煩わせまいとして「彼らをたしなめ」ますが、主は「神の国はこのような者の国である」として、「イエス様が大好き」彼らを喜んで呼び寄せられます(「好きこそ物の上手なれ」!)。

 一方、「ある役人」(新共同訳「議員」、マタイ19章「青年」)が来て「よき師よ、何をしたら永遠の生命を受け(て神の国に入)られましょうか」と尋ねます(超エリート!)。主を尊敬していますが、神とは認めていません。「キリストは彼に神が話しておられるのを聞くという高さにまで上がってきて欲しいと願われる。」(カルヴァン) 「何をしたら…」という問いに対しては、十戒の後半の「人を愛せよ」を引用して「貧しい人々」のために財産を使う優しさを求められますが、彼は「非常に悲しんで」去って行きます(クリスチャン・フェローシップ!)。

 主は彼を見送りつつ、「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る」方が易しいと嘆かれます。それで「人にはできない事も、神にはできる」のです(人の心を変える事!)。ペテロのように庶民的な者が「永遠の生命を受ける」でしょう(豊かな生涯!

 素直に「神の国を受けいれる者」が「永遠のすまいに迎え」(16章)られるのです(→1/10の礼拝説教)。主は今も「われに来よと…やさしく(テンダーに)呼びたもう」(讃517番)御方であります。