2021.1.3

       

■「無くてはならぬものは多くはない…」

         ルカ1038

 

  昨年、主日礼拝や祈祷会で学んで、今年の「年間聖句」を「無くてならぬもの…一つだけ」としました。3つの聖書箇所から、多くのとは出来なくても、神の言葉を聞くべきだと教えられます。

使徒ペテロは、ネロ皇帝の迫害におびえるトルコ東北部の教会に入り込んで来た異端の教えにまどわされないように、第2の手紙を書きます(→3章「再臨の否定」)。彼が「この幕屋(肉体)にいる間」に、以前に教えたことを「あなたがたに思い起させて、奮い立たせ」たいのです(Ⅱペテロ1:13)。彼らはその手紙を読んで、パテロが語ったことを思い起して奮い立つでしょう(→説教と音楽の演奏)。

 波乱万丈の生涯の晩年になって、ダビデは自分の生涯を導いてくれたものは何であったかを歌います。「もろもろの天は…大空は」と歌いつつも、神の言葉こそ「金よりも…慕わしく、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い」(詩篇19:10)と、自分がどれほど慰められて来たかを告白します(苦しみの中でも味わえる喜び!)。

 「良きサマリヤ人」では「フットワークの軽さ」が勧められましたが、マルタが接待に心を乱しているのに対して、主イエスは「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」として、主の足もとに坐って御言葉に聞き入っているマリヤを良しとされます(どっちやねん!)。今は教会の諸活動は出来なくなりましたが、あせらないで、御言葉を聞く生活に専念しましょう(フェルメールの絵)。

 マリヤは何もしていないのではなく、礼拝(サービス)という大切な奉仕をしているのです。こういう時代の中でも「われは聞くり、主の御声を」(讃313番)と歌う者は幸いです。









2021.1.10


■「永遠のすまいに迎えてくれる…」

         ルカ1613


    パリサイ人たちに「羊、銀貨、放蕩息子とその兄」などの話をされたあと、主イエスは弟子たちに「不正な家令(管理人)」の話をされます。自分の持ち物を上手に使って神の国に入って欲しいのです。

  前の「忠実な思慮深い家令」(12章)の話と同じように、この家令は教会の指導者を指しています。彼は「主人(神)の財産を浪費してる」ことが発覚して、主人から「あなたの会計報告を出しなさい」(→マタイ25章「タラントの話」)と言われて、「主人の負債者」たちの負債額を勝手に書き変えさせます(油百樽→五十樽、麦百石→八十石)。「(信仰の)兄弟たちに親切にすることが、神の憐れみを天から引き下ろすことになる。」(カルヴァン)

 意外なことに「主人は、この不正な家令の利口な(思慮深い)やり方をほめ」ます(父なる神の目!)。この譬え話の教訓として、主は「光の子ら」が「この世の子ら」から学んで、「不正な富を用いてでも…(信仰の)友だちをつく」れと勧められます。そうすれば「冨がなくなった場合…永遠のすまいに迎えてくれる」でしょう。

 主は弟子たちに「小事に忠実な人は、大事にも忠実である」と教え、「(地上の)不正の富」に忠実でなければ「(天上の)真の富」を任せることは出来ないと警告されます(→献金の祈り)。いつの間にか「ふたりの主人に兼ね仕える」(→マタイ6:24)ような気持になりやすい弟子たちは、目を覚ますべきです(頂門の一針!)。

 先に「永遠のすまい」に行った信仰者たちが私たちを「迎えてくれる」でしょう(R.ピーズ宣教師!)。そういう希望に生きる者は、「(わが神)主よ、みもとに近づかん」(讃320番)と歌います。









2021.1.17
      

 

■「アブラハムのふところにいるラザロ…」

         ルカ161431


 「小事に忠実」の大切さを聞いたパリサイ人たち「イエスをあざ笑った」ので、主は彼らに「金持とラザロの譬え話」をされます。主は私たちが小さな弱い人たちも大切にして欲しいのです。

「欲の深い(金を愛する)パリサイ人たち」は律法を守れば成功するという「人々の前で自分を正しいとする」生き方をします(パリサイワールド!)。「高慢で尊大な人々は、福音の教理を軽蔑の目で見る。」 (カルヴァン) 律法は大切ですが(→マタイ5章)、「(洗礼者)ヨハネの時」から「神の国が宣べ伝えられ、人々はこれに突入」しています。新しい世界が始まっているのです。

パリサイ人のような「ある金持ち」がぜいたくな暮らしをしているのに対して、「ラザロという貧乏人」は働くことも出来ず「犬ができ物をなめ」てくれるような生活ですが、死後は立場が逆転します。ラザロは天国の「アブラハムのふところに送られ」ますが、金持ちはそれを「はるかに見」るだけです。アブラハムは「ラザロは…慰められ」る資格があるとします(アブラハムワールド!→主イエスの目)。

両者の世界は「大きな淵」によって分けられていて越えられません。金持は存命中の「5人の兄弟」に警告するためにラザロを遣わして欲しいと頼みます(金持ワールド!)。彼らには「モーセと預言者」(旧約聖書)があるのですから、自分たちで悔い改めるべきです。「死人の中からよみがえってくる者」がここで語っておられるのです

「アブラハムのふところ(→ヨハネ13章)にいるラザロ」のよう生き方をしたいものです(カズコワールド!)。主イエスも小さい者を愛し、「御国の門を開きて我を招」(讃461番)かれます。












2021.1.24


 

■「すべき事をしたに過ぎません…

          ルカ1710


    ここでも主イエスは弟子たちに語られます(→16章「不正な家令」)。彼らがやがて教会の指導者になった時、主の僕(ミニスター「公僕」)として最後まで教会のために忠実に働いて欲しいのです。

 教会のメンバーも「罪の誘惑(スキャンダルつまずき」は避けられません(罪赦された罪人!)。もし指導者がつまずきの原因を作るならば「ひきうすを首にかけられて海に投げ入れ」られるに価します(→マタイ18章)。自分から罪を犯す者に対しては、「彼をいさめる」べきですが、悔い改める者は「七度」でも赦す寛容さが必要です(同上「七度の七十倍」→「罪を憎んで人を憎まず」)。

「使徒(となるべき弟子)たち」は心配になって「信仰を増してください」と頼みますが、主は「(真の生きた)からし種一粒ほどの」があれば、「この桑の木」を海に移すこともできる、と言われます(マタイ17章「山を移す」→神と共に働く者!)。「神は私たちが恵みにドアを開いていれば決して見捨てられない。」(カルヴァン)

ここから弟子たちを「耕作か牧畜をする僕」に例えて話されます。教会の働きの中で、外へ向かうもの(建物の管理、訪問、手紙等)がありますが、「その僕が畑から帰って来た」として主人は内に向かう働き(礼拝説教と聖餐、祈祷会聖書研究等)も命じます。「私が飲み食いするあいだ…給仕を…あとで飲み食いする」のが彼の仕事です(神奉仕!)。それを全部しても「すべき事をした」に過ぎません。

「主人は僕に感謝するだろうか」と言われますが、天に帰った僕を「よくやった」(マタイ25:21)と喜んで迎えてくださいます。改めて「主よ終わりまで仕えまつらん」(讃338番)と誓うのです。











2021.1.31

 

■「神をほめたたえるために帰ってきたもの…」          

       ルカ1711-21


  ここでは「十人のらい病人の癒し」の話と、「神の国はいつ来るのか」と尋ねた人たちの話があります。主イエスは「神をほめたたえるために帰ってきた」サマリヤ人のような、素直な信仰者を喜ばれます。

 「エルサレムへの旅」の途中、「サマリヤとガリラヤとの間」にあるさな村で、主は「十人のらい病人」に出会われます(→5章「全身らい病の人」)。彼らは「同病相憐れむ」ように仲良くして、「イエス様、先生…憐れんでください」(協会共同訳)と願います。祭司の所へ行く途中、主は彼ら全員を癒されます(「癒し主キリスト」!)。

 その中のサマリヤ人は帰ってきて「イエスの足もとにひれ伏して感謝」しますが、他の九人のユダヤ人は祭司の所へ行ったままです。主は「帰って来たものは、この他国人(サマリヤ人)のほかにはいないのか」と、ユダヤ人たちに失望されます。一方で、サマリヤ人に対しては「あなたの信仰があなたを救った」と励まされます。「彼はその信仰によって、神の子どもたちの人数に加えられた。」(カルヴァン)

 よく似た話ですが、パリサイ人たちが「神の国はいつ来るのか」と主に質問します。彼らはメシヤの王国が「(きらびやかな)見えるかたちで来ると期待していますが、そうではないのです(「灯台下暗し」!)。主イエスがメシヤであって、今すでに「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」のです(→11章「神の国は…あなた方のところに」)。素直な目で見れば、主イエスと共に神の国は来ているのです。

 「神をほめたたえるために帰ってきたもの」は、9対1の少数派ですが、主はそれを喜んでくださいます(私たちの礼拝!)。「イエスの恵み」を「世にある限り(喜んで)語り伝え」(讃502番)たいのです。