2023.9.3



信仰は聞くことから…」 

        ローマ101421


  パウロは改めて、福音というものが誰に対しても宣べ伝えられているのだ、と語ります。しかし、問題はそれをただ耳で聞くかどうかではありません。彼はユダヤ人たちが福音の説教を聞いて信じて欲しいのです。

 「主の名を呼び求める者は皆、救われる」と聞くと、ユダヤ人たちが心の中で反論することを察して、パウロはそれを代弁します。彼らは「信じたこと…聞いたことのない方…宣べ伝える人…遣わされないで…」と、正式の説教者から聞いていないを理由にしますが、かつてバビロン捕囚の解放を伝えた「良い知らせを伝える者」(イザヤ52章)も同じです。

 昔も「すべての人が福音に(聞き)従った」わけではありません(→イザヤ53章)。大切なのは「信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉(福音)によって起こる」という事です(→説教の聞き方→「応答の祈り」)。聞く耳さえあれば、「その声は全地に、その言葉は世界の果てにまで及んだ」(詩19篇)のですから、「聞かなかった」とは言えません。

 「イスラエルは分からなかったのか」と問うと、主は「民でない者(異邦人)のことで…妬みを起こさせ…怒らせる」(申命記32章)とモーセを通して言われ、「私を求めない者(異邦人)に私は見出され…」(イザヤ65章)と予告されていたとパウロは語ります。その上で主は「不従順で反抗する(イスラエル)に、日夜、手を差し伸べた」(同上)と付け加えます。「父が手をのべて、自分の子をやさしく胸に抱こうとして待っているように」(カルヴァン→松木治三郎『ローマ人への手紙』に引用)

  今のユダヤ人たちは、聞いても素直に信じませんが、それでもパウロはあきらめません(私たちの伝道も!)。「我に来よと主は今」(讃517)と歌いつつ、「帰れや我が家に」と呼びかける者は幸いです。







2023.9.10



恵みによって選ばれた者…」 

          ローマ1112


  ここまでパウロは、福音を聞いてもなかなか信じないユダヤ人の同胞のことを心配して語って来ました。しかしここからは「反撃に転じる」とい感じで、ユダヤ人の一部が救われているのは希望がある、と語ります。

  彼はユダヤ人クリスチャンたちの気持ちを代弁して、「神はご自分の民(ユダヤ人)を退け(捨て)られたのであろうか」と問います(→肩身の狭い日本人クリスチャン)。「決してそうではない」として反撃を開始し、「私もイスラエル人で…」と自分の救いのこと、預言者エリヤの「バアルに膝をかがめなかった七千人」(列王記19章)が残されたことを例にして、「現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています」と、主の恵みによる選びの確かさを強調します(「小事が大事」)。

  結果的に「イスラエルは求めているもの(救い)を得ないで、選ばれた者がそれを得た」のです。「他の者(クリスチャンでないユダヤ人)はかたくなにされ」ました(→申命記29章「見えない目、聞こえない耳」→ダビデの詩編69篇「食卓が罠…つまずき…目が曇って…」)。パウロ自身が先ずユダヤ人に伝道したのです(→使徒13章「異邦人の方へと向かう」)。

  今のパウロは「ユダヤ人がつまずいたのは…救いが異邦人に及び…彼らに妬み(口語「奮起」)を起こさせるため」であったと信じています。「妻が夫から捨てられて奮起するように…」(カルヴァン) こうして「彼らの過ちが世界の富となり…皆救いにあずかるとすれば…すばらしい」と力強く希望を語ります(ルカ14章「大宴会に招かれた客のその後」!)。

  「恵みによって選ばれた者」の数は少なくても、それは主の恵みが今も健在である事を示しています。「恵み深き主」(讃525番)を知っている者は、どんな時でも「わが主、わが神、恵み給え」と歌うことができます。

   






2023.9.17



ひざまずいて祈るー厳粛な別れー 

         使徒203138

 

  パウロはローマへ向かう旅の途中で、エフェソ教会の長老たちと会って語ります。人間の愛は変わるものです。「自分の目をえぐり出して」(ガテヤ4章)というほどパウロを愛していた人々の愛も冷えるのです(→戦争中の人間)。パウロはやがてローマへ行き、そこで斬首されます(→彼の首の跡に建てられた「トレ・フォンターネ教会」)。

 

     最後の別れは厳粛なものです。その時、人は「ひざまずいて祈る」ことしかできません(→妻の死→和子夫人の死)。これが本当に祈る人間の姿です(→日本の土下座との違い)。詩人は「天から…もろもろの高い所で主を賛美せよ」(詩148編)と、世界を支配される神に祈ります。

 

 主イエスはゲッセマネの園でこの杯を私から取りのけてください」と祈られました。しかし「私の望みではなく、御心のままに」が最後の祈りでした(→ティーリッケ『世界を包む祈り』)。主イエスは「アッバ、父よ」と呼びかけて祈られます(子どもが「パパ、ママ」と言うように)。弟子たちはそれを忘れずに聖書に書き残しました。幼子が無心に呼びかけるよ

うに父なる神に祈るのです(→パスカル「哲学者の神にあらず、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」)。それが私たちの信じている神です。その御方に向かって祈る幸いを感謝します。

 

(宇田牧師の説教要旨 文責・生田)    

 







2023.9.24


 

 

根があなたを支えている 

        ローマ111324


 ここからパウロはローマ教会の中の異邦人クリスチャンたちに語りかます。彼らがユダヤ人に対して優越感を持つことなく、思い上がらないで先祖の信仰という根につながって実を結んで欲しいのです。

 パウロ自身は「異邦人の使徒」として、自分の務めを光栄に思っていますが、同胞のユダヤ人のことも「何とかして…その幾人かでも救いたい」のです(「腐っても鯛」!)。彼らの救いは「死者の中からの命」のような喜びでしょう(→ルカ15章「放蕩息子の帰還」)。彼らの先祖は「麦の初穂」(民数記15章)や「根」のように聖別されています。「パウロは…アブラハムを…父祖たちを見よ、と命じる。」(カルヴァン)

 今はある枝(ユダヤ人)が折り取られ、野生のオリーブであるあなた(異邦人)がそれに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けて」いるのですが「あなたは…誇ってはなりません」と優しさを求めます。「あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えている」のであって、「ユダヤ人は不信仰によって折り取られ」たことを覚えるべきです。

  パウロは異邦人に対して「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」と警告します。「神の慈しみと(切り捨てる)厳しさ」を心に留めるべきです。彼らは「野生のオリーブの木から切り取られ…良いオリーブの木に接ぎ木された」ようなものです(実際の接ぎ木の場合とは違う→渋柿の根に甘柿の枝を接ぐ)。ユダヤ人たちも不信仰にとどまらないならば、接ぎ木される」望みがまだあることを忘れてはなりません

  ユダヤ人でも異邦人でも、先祖からの信仰という良い根から離れては生きられません。「栄に満ちたる神の都」(讃194番)に招かれている私たちは、良い根に生かされているのです(→ヨハネ15章「ぶどうの木」)。