2023.3.5


神は真実な方である…」

ローマ3:1-8


 パウロはここから少し語調を変えて語ります。ユダヤ人たちが受けた恵みを思い出させるのです(→新聖歌172番「数えて見よ主の恵み」)。主なる神がどれほど大きな恵みを与えられたか、その真実は変わらないと言います。

 少し厳しく言い過ぎたかと考えて、「では、ユダヤ人の優れた点(アドバンテージ!)は何か」と、パウロは神がしてくださった良いことを思い出させます。「割礼の利益は何か」と言うのも同じことです。それは「たくさんあります」と言って、「第一に、神の言葉が委ねられたことです」と、最も大きな恵みを挙げます(→創世記12章「祝福の基」→「青草を与える説教」)。

 多くのユダヤ人たちが「真実でない者」だとしても、「神の真実が無にされる」ということにはなりません。「決してそうではない」とパウロは強く否定します。「人はすべて偽り者であるとしても(→詩116:11)、神は真実なである」と言いたいのです。「これはキリスト教哲学の第一の原則である。」(カルヴァン) 「あなた(神)は…裁きを受けるとき、勝利を得られる」(詩51篇「ダビデの悔い改め」のギリシャ語訳)と、神の裁きの真実さを確信するパウロです(→太宰治「走れメロス」の人間の弱さ)。

 しかしパウロは、ユダヤ人たちの屁理屈を知っていて代弁します。「私たちの不義が神の義を明らかにする」とか、「私の偽りによって神の真理が増す」とか、「義を来たらせるために、悪を行おう」(→6章「罪によって恵みが増す」とか、無茶苦茶な言い方です。そんなことをしたら、「神はどうして世をお裁きになる」か、と一蹴します(→創世記18章「ソドムの裁き」)。

 パウロにとって「神真実な方である」というのは、晩年に至るまで変わらない確信でした(→Ⅱテモテ2章「我らは真実ならずとも…」。「真実(まこと)なる御神」(讃304番)を信頼する者は幸いです。







2023.3.12

正しい者はいない。一人もいない。…」

ローマ9-20


 ここまでパウロは、人間がどんなに間違った生き方をしているか、それは異邦人もユダヤ人も同じだ、と語って来ました。ここではその締めくくりとして、主はすべての人間が罪から救われて欲しいのだと語ります。

 パウロは改めて「私たち(ユダヤ人)はまさっているのでしょうか」と問います(→1節)。「そうではありません」というのは「全部と言うのではない」という意味です。何故なら「すでに指摘(告発)したように、ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪(ハマルティア「的を外すこと」)の下にある」からです(弓道の型が美しくても的中しない人!)。

 ユダヤ人たちに対して旧約聖書には「次のように書いてある」として、①「正しい者…善を行う者…一人もいない」(詩14篇「心の問題」)、②「彼らの喉は開いた墓…呪いと苦みに満ち」(詩5,140、10篇「言葉の問題」、③「足は血を流そうと…平和の道を知らない」(イザヤ59章「行いの問題」、④「彼らの目には神への畏れがない」(詩36篇「信仰の問題」と、彼らの罪を明らかにします(「聖書読みの聖書知らず」!)。

 こうして「(ユダヤ人もギリシャ人も」すべての口が塞がれて(→使徒23章「パウロの口をって黙らせる」)…神の裁きに服する)でしょう。

「律法を行うことによっては…神の前で義とされ」ず、「罪の自覚しか生じない」からです(→病気を宣告する医師))。「律法はそれ自体としては救いの道だが、私たちの邪悪と腐敗が妨害する。」(カルヴァン)

 「主は天から人の子らを見下ろ」(詩14編)されますが「正しい者は…一人もいない」ので悲しまれます。「行けども…ただ砂原」(讃244番)のような人生を歩んでいる者に、主は「わが友我に来たれ」と招かれます。






2023.3.19


神の義が現されました…」

ローマ2131


 すべての人間が罪の中にあるという事情を述べ終って、パウロはこの手紙の中心である福音を語り始めます(→1章「福音を恥としない」)。罪人のために神の義が現されて、キリストを信じる者は皆救われるのです。

 「しかし今や…神の義が現されました」とパウロは力強く語ります(「快刀乱麻を断つ」!)。「律法を離れて、しかも律法と預言者(OTによって証されて」、神の御子が来て、救いを成就されました。「神の義は…キリストの真実(→口語訳「信じる信仰」)によって…すべての者に現され…何の差別もありません」と明快です(「横綱相撲」!)。

 「罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている」人間が創世記1章「木の陰に隠れるアダム」)、神の御子「贖いの業を通して…価なしに義とされる」のです。「神の臨在の前に進み出ることが出来る罪人は一人もいない。」(カルヴァン) 神は「イエスを…その血による贖いの座」(出エジプト記25章「契約の箱に注がれる血」)として罪を赦し、「ご自身の義を示」されます(→新島校長のステッキ)。こうして神は「ご自身が義となり、イエスの真実に基づくものを義とされるのです。

 従って「(ユダヤ人の)誇りは取り去られ」ます(「行いの法則」→「信仰の法則」)。「人が義とされるのは…信仰による」からです。パウロは「神はユダヤ人だけの神」ではなく「異邦人の神」でもあると断言します。「神は唯一」(→申命記6章「聞け、イスラエル」)という宣言が新しい意味を持ちます(全人類の神!)。こうして神は「律法を確立」されます。

 人間の罪の現実をずっと見ながら忍耐して来られた神ですが、御子を送ることによって「神の義を現され」ました。ルターと共に「神は我が櫓、わが強き盾」(讃267番)と大声で賛美せずにはおれません。






2023.3.26

私たちの友ラザロが眠っている…」 

ヨハネ11:1-16


 イースターが近いので、ヨハネ福音書から「ラザロの死と復活」の説教をします(→映画『偉大な生涯の物語』のハレルヤコーラス)。主はすぐに助けられなくても、私たちを愛してくださる神の御子です。

 「マリアとその姉妹マルタ」(→ルカ10章)は有名ですが、「その兄弟ラザロが病気」です。姉妹たちは使用人を遣わして「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と伝えます。「彼女たちはつつましく控えめに主に立ち会ってもらうことを願っている。」(カルヴァン) しかし主は「この病気は死で終わるものではない」と言って行動されません。「イエスは…愛しておられた」と言われても不安になります(信仰の危機!)。

 主は「なお二日間、同じ所(→10章「ヨルダンの向こう岸」)に滞在」した後、「もう一度、ユダヤに行こう」と言われますが、ユダヤ人を恐れる弟子たちは不安になります(→10章「石で打ち殺す」)。主は「昼のうちに歩けば…夜歩けば…」と今は昼だから大丈夫だと語り、「私たちの友ラザロが眠っている…私は彼を起こしに行く」とユーモアのある言い方をされます(→14章「父の家の住まい」→死を究極としない生き方)。

 弟子たちは「主よ、眠っているのであったら助かるでしょう」と楽観的な言い方をしたり、トマスのように「私たちも一緒に行って死のうではないか」と悲観的な言い方をしたり、理解の浅さを露呈します(ヨハネの思い出!)。主はそれでも彼らに対して「あなたがたが信じるようになるため…さあ、彼のところへ行こう」と前進されます(信仰の成長の必要!)。

 主は「私たちの友ラザロ」と呼んで、弟子たちだけでなく、ご自分もその中の一人だとされます。「いつくしみ深き、友なるイエス」(讃312番)を持っていることを感謝し、それを歌わずにはおれません。