2021.8.1


わたしはその人を知らない

      ルカ225462


  主イエスは捕えられてから、大祭司カヤパの邸宅に連れて行かれ、そこで尋問されます(事情聴取?)。その時、ペテロは主を知らないと三度も言ってしまいますが、主は優しい目で見てくださいます。

「人々はイエスを捕え…大祭司の邸宅へ連れて行」きます(→現在の「鶏鳴教会」がある場所)。他の弟子たちは逃げてしまいますが(→マルコ14章)、「ペテロは遠くからついて行」きます(主への愛!)。「中庭のまん中に火をたいて…ペテロもその中に」すわります。彼はあまりにも無防備です(「君子危うきに近寄らず」!)。しかし、冷たくないのです。
 彼は「ある女中(若い召使)が…この人もイエスと一緒にいました」と言うのに驚いて、「わたしはその人を知らない」と否定します(回目)。

次に「ほかの人(男)」に対しては、「それはちがう」と否定します(2回目)。約1時間後、他の男が「この人もガリラヤ人なのだ」と言葉の「なまり」を指摘すると、「わからない」と否定します(3回目)。「私たちは、もしも主が私たちを支えるために手を差し伸べてくださらなければ、どこまでも落ち続けるであろう。」(カルヴァン)

 幸い「たちまち、鶏が鳴いた」ので、ペテロは自分を取り戻します(ゴングに救われる!)。外に出てこられた主は「振りむいてペテロを見つめ」られます(優しい眼差し!)。主の警告の言葉(→22:34)を思い出して、ペテロは「外へ出て、激しく泣」きます。「男泣き」をするペテロですが、それは後悔の涙というよりも喜びの涙であったでしょう。

 信仰者がしなければならないことは、いつも「私はその人(主イエス)を知っています」と告白することです。「三たびわが主を否みたる」者にさえ優しい「主の瞳と眼差し」(讃243番)歌う者は幸いです












2021.8.8

白い衣を身にまとい

         黙示録717


「召天者記念礼拝」なので、使徒ヨハネが神の幻を示されて書いた黙示録から、「天の勝利の教会」の姿を見ましょう(→「地上の戦闘の教会」)。

召天者たちはそこで喜んで神を賛美しています(記念会の式文!)。

 ヨハネは全世界からの「数えきれないほどの大ぜいの群衆」を見ます。彼らは「白い衣を身にまとい、しゅろ(なつめやし)の枝を手に…救は、御座にいますわれらの神と子羊(主イエス)からきたる」と叫ぶのを見ます(天上の礼拝!)。「御使(天使)たち」もその礼拝に加わります。

「長老たちのひとり」(→4章「24人の長老」→「天上の役員会」)が「この白い衣をまとっている人々」のことを尋ねると、ヨハネは「それはあなたがご存じです」と上手に答えます。「彼らは大きな艱難をとおってきた人たち」(地上の生活!)であり、「その衣を子羊の血で洗い白くした」のだと説明します(→詩51篇「雪よりも白く」)。「御子イエスの血が、すべての罪から…きよめる」(Ⅰヨハネ1:7→クリーニング!)のです

 召天者たちは「昼も夜もその聖所で神に仕えて」います(旧約の祭司たちのように!)。父なる神は「彼らの上に幕屋(天幕)を張って共に住」んで下さいます(遊牧民のように!)。「飢えること…かわくこと…太陽…炎暑」から守られ、「子羊は…いのちの泉に導いて」下さり(→詩23篇)、「神は、彼らの目から(人知れず流した)涙を…ぬぐいとって」下さいます。「いつもあなたがたと共に」(マタイ28:20)と言われた通りです。

「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない」(ヨハネ13:10)と言われた主が、私たちの衣の裾の汚れまで洗って下さいます。純白の衣を身にまとわせていただいて、「牧主(かいぬし)わが主よ」と呼びかけ、「我らは主のもの、主をのみ愛す」(讃354番)と歌うのです。






2021.8.15


あなたは神の子なのか

         ルカ226371


  木曜日の夜、大祭司の邸宅で尋問されたあと、主イエスは地下牢に移されますが、そこで番兵たちからひどい扱いを受けられます。翌朝、ユダヤ人の議会で、主はご自分の方から有罪になるような発言をされます。

夜間の尋問のあと「イエスを監視していた人たちは…嘲弄し(あざけりもてあそび)…愚弄した」と、ルカは精神的な苦しみを味わわれた主の事を記します(マルコ14章「つばきをかけ…手のひらでたたいた」)。神の御子は私たちのために苦しまれます(→Ⅰペテロ2章「善を行って苦しみを受け」→戦後の牧師夫人「主の苦しみを思えば、何のこれしき!」)。

  金曜日の早朝、「人民の長老(中間派)、祭司長たち(サドカイ派)、律法学者たち(パリサイ派)」が集まり、「イエスを議会(サンヒドリン→ユダヤの最高政治機関)に引き出し」ます。「あなたがキリスト(メシヤ)なら、そう言ってもらいたい」と問われると、主ははっきりと否定も肯定もされません(主の賢さ→ユダヤ人だけの救い主ではない!)。

  主ご自身が「人の子(私)は今からのち(十字架の後)、全能の神の右に座するであろう」と言って、神ご自身と同格だとされます(三位一体!)。「キリストが神の右に座されるのは、神の代理者だからである。」(カルヴァン) 「あなたは神の子なのか」という質問に対しても肯定されるので、彼らは神を冒涜する者だと激怒します(「エホバの証人」も同じ!)。クリスマスは世界の救い主の誕生を祝う時です(→ルカ3:38)。

 彼らを激怒させることによって、主は十字架への道を開かれます。それによって「神はその独り子を賜ったほどに」(ヨハネ3:16)ということが実現し。「ああ主は誰がため世に下りて」(讃138番)と「虫のような私のために」(直訳)来てくださった神の御子に感謝するのです。









2021.8.22


名をヤコブとなけた…」


       創世記25:19-26


ルカ福音書の説教をしばらく中断して「ヤコブ物語」の説教をします。

「アブラハム物語」(創12-24章)の続きです。主なる神は、アブラハムの祝福を受け継ぐ者として、ヤコブを選ばれます(聖火ランナー!)。

 アブラハムは祝福の約束を受けた時、ハランを出てカナンに来て、そこで信仰者らしい証の生活をします(→創12章)。その祝福はイサクに受け継がれます。「イサクは40歳の時…ラバンの妹リベカを妻に」迎えます。ところが「妻が子を産まなかったので…主に祈り願」った結果、「主はその願いを聞かれ、妻リベカは身ごも」ります(60歳まで20年も祈った!)。

 その子ら(双子!)が胎内で押し合った(争った)」ことを心配したリベカは「こんなことでは、わたしはどうなるのでしょう」と主に尋ねます(信仰者の家庭でも心配ごとはある!)。主は彼女に「2つの国民があなたの胎内にあり、兄は弟に仕えるであろう」と将来のことを知らせられます(→詩60篇「イスラエルとエドムの争い」)。

 出産の「先に出た(兄)は…全身毛ごろも(セル)のようであった」ので「エサウと名づけ」ます(→27章「毛深い人」)。彼は野性的な性格です。次に弟が出てきますが、「その手はエサウのかかと(アーケーブ)をつかんでいた」ので「名をヤコブと名づけ」ます(負けん気が強い弟!)。性格的には問題があるでしょうが、彼が祝福を受け継ぐことになるのです。「神はある人たちを選ばれるが、彼らがその前から聖なる者と見ておられたからではなく、聖なる者とするためである。」(カルヴァン)

 ヤコブ(「かかとをつかむ者」)という名前は、祝福を求める心の強さを表しています。「主はその心を見る」(1サムエル16章)お方です。「恵み深き主」(讃525番)を求める心を歌いたいのです。








2021.8.29


「長子の特権をわたしに…」

       創世記25:2734


 エサウとヤコブが成長して青年になった時の話です。この時もヤコブはずるいやり方で長子の特権を手に入れます。主なる神はそれでも、祝福を得ることを心からの喜びとするヤコブを良しとされます。

エサウは巧みな狩猟者となり、野の人となった」のに対して、「ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた」というように、性格の違う兄弟です(マルタとマリヤ!)。問題は、「イサクは、しかの肉が好きだったので、エサウを愛した」とか、「リベカはヤコブを愛した」と、両親の心が一致していないことです信仰者の夫婦の現実!→アブラハムとサラ)。

「ある日ヤコブが、あつもの(煮物)を煮ていたとき、エサウは…野から帰って良い匂いに惹かれて「その赤いもの(アードーム→エドム人)をわたしに食べさせてくれ」と頼みます。ヤコブが「長子の特権をわたしに売りなさい」と言うと、彼はよく考えもせずに、「わたしは死にそうだ。長子の特権など何になろう」と言って誓ってしまいます。「パンとレンズ豆のあつもの」を食べて立ち去るエサウです(→へブル12章「一杯の食のために長子の権利を売ったエサウ→ルカ12章「愚かな金持」」。

この時、ヤコブはエサウの空腹を利用して「まずわたしに誓いなさい」と言うほどに用心深いのです。彼にとって、それくらい目に見えない神の祝福が価値あるものだったのです(→ピりピ3章「パウロの価値転換」)。

ヤコブはずる賢いようですが、「聖書記者は天上の生命を渇望している聖ヤコブの敬虔さを称賛しているのである」(カルヴァン)

 ヤコブは長子の特権をどうしても欲しいと願っているので、そのために本気になって工夫するのです(パラアスリートの本気さ!)。救いを受けて「ああ嬉しわが身も(讃529番)歌う者の喜びと同じです。