2024.3.3

 

モーセはファラオの手を逃れて

      出エジプト記1125


 モーセがファラオの娘の養子となってから約40年後の話です(→使徒7章「四十歳になった時」)。年の割には幼い感じがします。主なる神は、未熟な信仰者が失敗して倒れても、そこから立ち上がらせて下さいます。

 成人したモーセはイスラエル人として「自分の同胞のところに出て行き」ます(→ヘブライ11章「神の民と共に」)。「一人のエジプト人が同胞のヘブライ人を打つのを見…打倒し、砂に埋め」ますが、「翌日…今度は二人のヘブライ人が争って」いるのを見て仲裁しようとして、逆に「私を殺そうとするのか」と反撃されて恐れます(未熟な信仰者!)。

 「ファラオはこのことを聞いて、モーセを殺そうと捜し」ますが、「モーセはファラオの手を逃れ、ミデヤンの地(→3章「神の山ホレブ」)に」行きます。「彼のきっぱりした態度は…ファラオとの和解を求めないことに示されている。」(カルヴァン) そこの井戸のほとりで、彼は「ミデヤンの祭司」である「レウエル」(神の友)」(実名は「エトロ」)の「七人の娘」を助けて、その家の客となります(→創世記29章「ヤコブとラケル」)。

 「モーセがその父親と住むことを望んだ」(信頼関係!)ので、「父親はその娘ツイポラ(小鳥)をモーセに与え」て、彼女は男の子を産み、モーセは「ゲル(寄留者)ショム(その地)」と名付けます。自分の帰るべき地を忘れない強いモーセです。それから長い年月がたち」ます(→7章「モーセは八十歳」)。「エジプトの王(セティ1世?)は死」にますが、次の王(ラメセスⅡ世?)の時も苦しみ、「神はその呻きを」聞かれます。

 モーセは「ファラオの手を逃れ」(→文語訳「パロの面(かお)をさけて逃げ」)ますが、恐ろしい顔ではなく、優しい顔の神が見ておられます。倒れても「牧主わが主」(讃354番)と歌って立ち上がる者は幸いです。









2024.3.10


神は柴の間から呼びかけ

出エジプト記


 前回の時から約40年が経ち、モーセは80歳になっています(→老人性の鬱)。そういう彼の所に、神が来られるのです。主なる神は、年取ったモーセを召して用いるために、彼にご自分を現わされます。

 モーセはミデヤンの祭司エテロの羊を飼う者」となっていますある日「群れを荒れ野の奥に導いて、神の山ホレブに来」ます(→19章「シナイ山」)。その山の麓で「柴の間で燃え上がる炎の中に主の使い(天使)」がいて、その柴は「火で燃えていたが、燃え尽きることはなかった」という不思議な光景を見ます(→創世記15章「裂かれた動物の間を通る火」)。

 すでに40年も羊飼いをして、すっかりそういう生活に慣れたようなモーセですが、「道をそれてこの大いなる光景を見よう」というように、老人らしからぬ好奇心を示します(気持ちの若さ!)「彼が道をそれてまで見ようとする柔軟性を見るべきである。」(カルヴァン) 主はそれを見て「柴の間から呼びかけ、『モーセ、モーセ』と言われ」ます。「御前におります」と答えるモーセは若者のようです。

 モーセとしては初めての神との出会いですが、神は彼を知っておられます(→ガラテヤ4章「今や神を知ったのに、いや、神に知られたのに」)。近づこうとするモーセに対して、神は「近づいてはならないあなたの立っている場所は聖なる地である」と厳しい言い方をされます(→親子の関係→頼ることができる神)。さらに「私はあなたの先祖の神、アブラハムイサクヤコブの神である」と自己紹介をされます。幼い頃、両親から教えられた神であることを知って、「モーセは顔を隠し…恐れ」ます。

 大いなる力を持った神が「柴の間から呼びかけ」でくださるのです(→クリスマス「人間の赤ちゃんとして来られる神」)。「主の尊き御言葉」(讃284番)を聞きつつ、この御方に頼る者は幸いです。












2024.3.17

 

私は何者なのでしょう

                     出エジプト記12


 主なる神はモーセにご自分を現わされた上で、彼に大きな使命を与えられます。その時の彼は、若い時のようではありません。しかし主は、イスラエルの民の苦しみを知って、モーセを助け手として送ろうとされます。

 主は先ず「エジプトにおける私の民の苦しみを…聞いて…その痛みを知った」と、モーセの心に訴えられます(心のシェアー!)。「私は下って…エジプトの手から救い出し…乳と蜜の流れる地…に導き上る」としてモーセにその仕事を託されます(→マタイ11章「重荷を負うものを助けるイエス」)。そこは「カナン人…エブス人の住むところ」とあるように先住民がいますが、彼らと共に住ませたいのです(平和的な共存!)。

 主は「さあ行け…私の民を…導き出しなさい」と命じられますが、若い時と違って(→2章のモーセ)、今の彼はその気になれません。すっかり自信を喪失して、「私は何者…ファラオのもとに…イスラエルの人々を…導き出すのですか」と、ネガティヴです(老人性の鬱!)。神はそういうモーセを用いられるのです(→絵手紙「下手で良い、下手が良い」)。

 そんなモーセに主は「私はあなたと共にいる」と断言されます。「神がモーセの導き手となられるためには、彼が何者か、どれほど力があるかは問題ではないのである。」(カルヴァン) さらに「私があなたを遣わすしるしして、「あなたが民をエジプトから導き出したとき…この山(シナイ山)で神に仕えることになる」(→十戒の授与)という約束を与えられます。モーセはすっかり元気になり、ポジティヴになります。

 「私は何者でしょう」としり込みするモーセを主は用いられます(→牧師が献身の時に与えられた聖句)。「主よ御手もて引かせたまえ」(讃285番)と歌いつつ、主に導かれて歩む者は、安心して生きて行くのです。










2024.3.24

十字架につけられたイエス・キリスト

ガラテヤ1-5


 受難週なので、祈祷会で教えられたことを取り上げます。パウロにとって十字架とは何であったか、ということです。彼はガラテヤ地方のクリスチャンたちに、目移りせず十字架のキリストだけを見て欲しいのです。

 パウロたちは第1回宣教旅行の時にガラテヤ地方(今のトルコ西部)で伝道し、多くの人が信じてクリスチャンになりました(→使徒13,14章)。しかし、異端の教師たちに惑わされている聞いたのです。「ああ、愚かなガラテヤ人たち」と叫び、「誰があなた方を惑わした(魔法にかけた)のか」と言い、「十字架につけられたキリストが目の前に…示されたのに」と残念がります→催眠術)。彼らは目の前にキリストの死を見せつけられたかのように、パウロの説教に感動させられた。」(カルヴァン)

 彼は「あなたがたにこれだけは聞いておきたい」と言って、「あなたがたが霊(聖霊)を受けてクリスチャンになった時のこと(→Ⅰコリント12章「イエスを主と告白する」)を思い出させます(迷ったときは出発点に帰る!)。律法を行った」からではなく「信仰に(よって)聞き従った」救われました彼らは「霊で始めたのに…肉で仕上げようとする」ような愚かなことをしています(→讃270番「信仰という杖の大切さ」)。

 また「あれほどのことを体験した」ことを思い出させます(→使徒14章「リストラでの奇跡や騒動」)。それ「無駄になってしまうかと心配です「神があなたがたに霊を授け…奇跡を行われた」ことを大切に考えるべきです(→新聖歌172番「数えてみよ主の恵み」)。

 パウロは「十字架につけられ給いしままなるイエス・キリスト」(文語訳)を見つつキリストと共に十字架につけられ」(2章)と告白します十字架の主、「この人を見よ」(讃121番)と歌う者は幸いです。






2024.3.31


月足らずで生まれたような私にまで

                   Ⅰコリント15:1-11 


 ガラテヤ書には復活への言及があまりないので(→1節)、コリント書の中から、パウロにとって復活とは何かを学びます。彼は、復活を否定する人々に、主は確かに復活して自分にまで現れてくださったと語ります。

 コリント教会は第回目の宣教旅行の時にパウロが建てた教会ですが、ギリシャ的な二元論の教えの影響で肉体の復活を否定する人たちが出てきたのを聞いて、パウロは「もう一度…福音を知らせます」と言います。本来は「あなた方が受け入れ、よりどころとし、これによって救われる福音」なの今の彼らは「無駄に信じ…しっかりと覚えて」いないようで心配です(→「予習と復習」→「クイズ番組とクラシック音楽」)。

 パウロが「最も大切なこととして…伝えた」のは「私も受けたもの」だと言います教会生活の中で!)。キリストは旧約聖書にも書かれているように「罪のために死んだ…葬られた…三日目に復活した」だけでなく、「ケファ(ペトロ)に現れ…十二人に現れ五百人以上のきょうだい…ヤコブ(主の兄弟)…すべての使徒」に現れ、「最後に、月足らずで生まれたような私にまで現れて下さいました(→使徒9章「ダマスコの出現」)。

 彼自身は「神の教会を迫害したので・・・使徒と呼ばれる値打ちもない者」ですが「私に与えられた神の恵みは無駄にならず…他の使徒たちの誰よりも多く働きました」と語ります(→使徒9章「異邦人の使徒」)。「彼が自分を他の使徒たちと比べたのは…いつも彼の名を陰らせようとするのが常であった悪人どものためであった。」(カルヴァン)

 他の使徒たちのような準備期間(未熟児!)使徒とされたパウロ自分を選んで現れ下さった主に対して「恩知らず」なれません。「今日イエス君は甦れり」(讃154番)と喜んで賛美するは幸いです。