2022.9.4

エデンの園に人を連れて来て…」

創世記17


創世記の2章4節の後半から「アダム物語」が本格的に始まります(その前は序文)。素朴な書き方ですが、具体的でわかりやすいのです。「(神である)主」は人間を造ってエデンに住ませ、責任を与えられます。

「主が地と天を造られた時」(→1章「と地」)は、「地には…なかったと何もない情景です(イスラエルの乾燥地帯!)。やがて「水が地下から湧き…主は土(アダマ)の塵(→詩90編「葬儀の式文」)で人(アダム)を形づく」られますヤーツァル→粘土で作る。弱いですが「主は…その鼻に命の息を吹き込まれ…生きる者」となります(人間の尊厳!)。

弱くても愛情を込めて作られています(人形のような赤ちゃん!)。

 「主は東の方のエデンに園を設け…人をそこに置かれ」ます。その場所は「四つの川」の源流の地域が想定されています。①「ピション」(インダス川?)、②「ギホン」(ナイル川?)、③「ティグリス」、④「ユーフラテス」とあるので、アルメニア辺りのようです。「エデン」(喜び)という名の通り、「見るからに好ましく、食べるのに良さそうなあらゆる木」を備えられます(→箴言15章「野菜と牛」→「埴生の宿もわが宿」)。

 「主は…人を連れて来て…そこを耕し,守る」という責任を与え、「善悪の知識の木からは、取って食べてはならない」と命じられます。「一つの木の実を食べないのは服従の第一歩であった。」(カルヴァン) 「食べると必ず死ぬ」と注意されます(キエルケゴール『死に至る病』)。幸せな親子のような関係を求められるのです(→「放蕩息子」)。

 主はエデンの園を文字通り「喜びの園」にしたいと願われます。しかし、人間はどんなに良くしてもらっても不満を持つのです。「光に歩めよ」(讃326番)と歌いつつ、主に従って歩む者は幸いです。








2022.9.11


人が独りでいるのは良くない…」

創世記1825


「アダム物語」の続きですが、ここでは女が造られます。1章は「男と女に創造された」とありますが、ここではその意味を語るのです。主は男が独りでなく女と助け合って生きるようにされます。

主は「人が独りでいるのは良くない」と心配して、「彼にふさわしい(対応する)助け手を造ろう」と言われます(→コへレト4章「一人より二人」)。 

「主は…あらゆる野の獣…を土で形づくり」人のところに連れて来て「名付け」させられます(→飼い犬「ジャン」)。しかし「自分にふさわしい助け手は見つけることができなかった」のです(やって見て納得する!)。

 主は「人を深い眠りに落とされ」(手術前の麻酔!)「あばら骨の一つを取り…肉で閉ざ」されます(→人間の肋骨の形)。その「あばら骨で女を造り上げ、人のところへ連れて来られ」ます。「神は建て始めた人類を女によって完成されのである。」(カルヴァン) 麻酔から覚めたアダムは「これこそ、私の骨の骨、肉の肉、これを女(イシャ)と名付けよう。これは男(イシュ)から取られたから」と喜びの声を挙げます。

 このあとは聖書記者の説明です。「こういうわけで、男(イシュ)は父母を離れて妻(イシュトー)と結ばれ、二人は一体となる。」(→マルコ10章「人は離してはならない」→結婚式の式文)。「人とその妻とは二人とも裸であったが…恥ずかしいとは思わなかった」と健康的です(→3章「いちじくの葉」)。男女の助け合う関係は結婚に限定されるわけではありません(→教会の交わり→「二人だけの愛の園」ではない!)。

 「独りでいるのは良くない」とは、他者との交わりの必要を言われているのです(→ヨハネ8章「私を独りにされない」)。「飼い主わが主」(讃354番)と歌いつつ、助け合って生きる者たちは幸いです。








2022.9.18



神である主の顔を避け…」

創世記313


エデンの園で一組の夫婦が生活するようになった頃の話です(結婚生活難しさ!)アダムとエバの仲の良い時は長く続きません。主は人間の幸せを願われますが、人間は神から離れて生きようとします。

 ここでは「失楽園」(→ミルトンの詩)の話になり、「最も賢い蛇」をサタン(悪魔)が利用します(→マタイ10章「蛇のように賢く」→黙示録12章「いにしえの蛇」)。サタンはエバに「神は…園のどの木からも取って食べてはいけないと言ったのか」と尋ね、彼女が「園の中央にある木の実は食べてはならない…と言われた」と答えると、「死ぬことはない…神のように善悪を知る者となる」とそそのかします(親子関係に亀裂!)。

 エバが見ると「その木は…好ましく思われた」(→Ⅰテモテ2章「女性の弱点」→Ⅰヨハネ2章「美しい物」)ので、「実を取って食べ、一緒にいた夫にも与え…彼も食べ」ます(夫婦の会話の必要!)。アダムは「取って食べると必ず死ぬことになる」(2章12節)とはっきり聞いていはずです。「神の御言葉を侮るならば、神に対する一切の尊敬は投げ捨てられる。」(カルヴァン) 彼らは「腰に巻くものを作」る始末です。

 「風の吹く頃」(夕方のウォーキング)、「主が園の中を歩き回る音」を聞いて、アダムとエバは「主の顔を避け園の木の間に身を隠し」て罪を知られまいとします。「木から食べたのか」と問われる主に、アダムは「妻が木から取ってくれたので…」と弁解し、エバは「蛇がだましたのです」と責任転嫁します(→Ⅰヨハネ1章「罪の告白の必要」)。

 主の顔を避け二人に対してもなお「どこにいるのか」と呼びかけてくださる主です(ルカ15章「放蕩息子の父」)。「おり(檻)を離れ…さまよう羊」(讃247番)でも、羊飼いのもとに帰る者は幸いです。


2022.9.25



皮の衣を作って着せられた…」

創世記31424


 アダムとエバは罪を犯したので、罰を受けることになります(愛すればこそ叱る!)。神である主は、罪を犯した人間をエデンの園から追放されますが、彼らがやがて帰って来るのを待たれるのです。

 主は先ず蛇(サタン)を裁き、「お前は這いずり回り…」と一時の思い上がりを戒め、「お前の子孫(手下)と女の子孫(人間)との間に私は敵意を置く」と、これからずっと敵対関係が続くとされます。それでも「彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」と、人間に下駄をはかせて有利にし、御子を送ってサタンにダメージを与え(→ヨハネ12章「この世の支配者の追放」)、励まされます(→ヨハネ16章「世に勝った」)。

次にエバ裁き、「身ごもりの苦しみを大いに増」し(安産ばかりでない!)、「夫はあなたを治める」と困難な関係を予告されます。最後にアダム裁き、「苦しんで食べ物を得る」(仕事のストレス!)ことや「茨とあざみ」が生えるという自然環境との戦いを経験し、遂には「あなたは塵だから、塵に帰る」(→葬儀の式文)とされます(個人差がある!)。

主の寛大な裁きに感激したアダムは「妻をエバ(生きる)と名付け」ます(→「ハイ」〈生る者〉というペンダント)。エデンからの追放(勘当や家出ではない!)の前に、主はいちじくの葉しかない二人のために「皮の衣を作って着せられます。「主は毛皮で着物を作るために労働に従事された。」(カルヴァン) 暖かい衣に包まれ二人はエデンを出て行き、主は「ケルビムときらめく剣の炎」で園を守り、彼らの帰りを待たれます。

罪を犯した二人ですが、主は彼らのことを見捨てられたわけではありません。やがて神の御子が来られて、私たちのためにご自分の命を犠牲にしてまで、「我に来よ」(讃517番)と呼びつつ待っておられるのです