2020.2.2



■「福音を宣べ伝えなければならない

         ルカ43144


 主イエスはカペナウムへ行き、そこで伝道活動をされます(→マルコ1:21-39)。ルカはマルコの順序に従いつつ、主が出来るだけ多くの人々に救いの恵みを味わわせたいのだ、と語ります。

ナザレと同じように、カペナウムでも主は「安息日に…(シナゴーグで)人々をお教えに」なります。「汚れた悪霊(デーモン)につかれた人が…大声で叫び出し」ます(悪霊の拒絶反応!)。主が「黙れ、この人から出て行け」と言われると、悪霊は「傷は負わせずに」その人から出て行きます(横綱相撲!)。人々は「これは、いったい、なんという言葉だろう」と、主の権威と力に驚きます。

 その日の午後、主は「シモン(ペテロ)の家におはいりになり…しゅうとめが高い熱を病んでいる」のを見て、「熱が引くように命じ」られると癒されて「彼らをもてなし」ます。さらに「日が暮れると

(安息日の終り!)…いろいろな病気になやむ者」が大勢連れて来られますが、主は「そのひとりびとりに手を置いて」癒されます。

安息日の翌朝、「イエスは寂しい所へ出て行かれ」ます(→マルコ1:35「そこで祈っておられた」)。群衆が来て「自分たちから離れて行かないように」引き止めますが、主は「ほかの町々にも福音を宣べ伝えねば…」と、ご自分の使命を語り、「ユダヤの諸会堂で教えを説かれ」ます。後に主は弟子たちに、「聖霊が…くだる時…地のはてまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)ことを託されます。

 「ラッパの音のように、主は…ユダヤ全土を旅して回らねばならなかった。」(カルヴァン) その救いを味わって「飢えし心も飽き足」 (讃502番)りた者は、その恵みを「語り伝えよ」と歌います。



2020.2.9



■「あなたは人間をとる漁師になる

         ルカ511

 主イエスはペテロや他の弟子たちをご自分の伝道活動のために召されます。マルコ福音書(1:16-20)では簡単ですが(モモタロウ!)、ルカはちゅうちょする弟子たちの様子を記します。

「ゲネサレ湖畔(ガリラヤ湖の別名)に立っておられた」主イエスは、集まって来た群衆に説教するために「シモン(ペテロ)に頼んで…舟の中から…お教えに」なります。それが終わると、「沖へこぎ出、網をおろして漁をしてみなさい」と、話のきっかけをつくられます。この時はまだ「漁師ペテロ」だったのです。

それに対してペテロは、「先生」と言って、「わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした」と常識的な反論をしますが、それでも「お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と気持を変えます。その結果は思いがけない大漁でした。ペテロは「主よ…わたしは罪深い者です」と告白します(→イザヤ6章「わざわいなるかな、わ

たしは滅びるばかりだ!」)。「ペテロは…キリストの偉大さに驚いて、後ずさりするのである。」(カルヴァン)

 そういうペテロに対して、主は「恐れることはない…」と語りかけられます。ペテロも仲間たちも「いっさいを捨ててイエスに従」います(「フォローワー」になる!)。もはや主に従うことにちゅうちょはないのです(→ピリピ3:8「キリストのゆえに、わたしはすべてのものを失ったが…ふん土のように思っている。」)。

 「人間をとる漁師」は「生け捕りにする」ということで、これまでのような漁師ではなくなるのです。「我に来よ」(讃517番)とやさしく呼んでくださる主に招かれて、従う者は幸いです。

 





2020.2.16




■「互いに愛し合うように教えられ

       Ⅰテサロニケ412


  教会は神によって建てられ、導かれています。そのことの確かな一つのしるしは、そこに、神様の愛によって生かされている者達の愛の交わりがあるということです。父なる神様から生まれた、霊における兄弟姉妹の関係、兄弟愛です(9節)。イエス様は弟子たちに、互いに愛し合うように命じられ(ヨハネ15:12)、また、使徒ヨハネは、「わたしたちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきたことを、知っている。」(Ⅰヨハネ3:14)と告げています。まさに、兄弟愛は、イエス様によって新しい命に生きる者とされたことの確かなしるしなのです。

 愛は、具体的な目の前の人への労苦が伴います。しかし、たとえその人のために何もできなくても、私達には、最も大切な愛の業が残っています。それは祈ることです。兄弟愛は、祈りに尽きます。私達の愛は、祈りへと導かれ、祈りから具体的な愛の業へと押し出されます。

 私ではなく、全能の神様が働いて下さることを信じて、あの人この人のために祈ります。

 テサロニケの人々の兄弟愛は、自分の教会の枠をも超えるものでしたが、パウロは「なおいっそう励むように勧めます。」(10節新共同訳)それは、兄弟愛は、イエス様の愛を注がれて、イエス様の愛にならって生きることですから、もうこれで十分ということではないからです。兄弟愛は、天の御国おいて完成されます。それ故、私達は、自らの欠けを覚えつつ、その完成の時を憧れ、御国を目指して、「なおいっそう励」んで、この地上を歩むのです。(小栁師の説教要旨)

 




2020.2.23



■「起きよ、床を取り上げて家に帰れ…

          ルカ51226


 ガリラヤ地方の伝道活動が始まり、主イエスは2つの癒しの働きをされます。マルコも同じ時のことを書いていますが(→1:40-2:12)、ルカは主イエスがどういう気持でそうされるかを語ります。

一つ目の癒しは「全身らい病になっている人」(→レビ13:45「汚れた者」)で、主は「きよくなれ」と言って癒した上で、「だれにも話さないように…からだを祭司に見せ…人々に証明して」(レビ14:20)、社会復帰するように命じられます。しかし、彼は癒しを人々に宣伝したので、主は多忙になられます(「親の心子知らず」!)。

もう一つは「中風をわずらっている人」(→聖書協会共同訳「体の麻痺した人」)の癒しです。彼は神の赦しを熱心に求めて、仲間たちに頼んだようです。「もし彼自身が信仰を持っていなかったら、罪の赦しを得ることは出来なかっただろう。」(カルヴァン) その熱心さに共感した仲間たちが「屋根にのぼり(ペテロの家!)…床ごと…イエスの前においた」ので、主は「あなたの罪はゆるされた」と、神御子として宣言されます(「求めよ、さらば与えられん」!)。

 そこには「エルサレムからきたパリサイ人や律法学者たち」がいて、主を批判します。「罪はゆるされたと言うのと、起きて歩けと言うのと、どちらがたやすいか」と質問した上で、「起きよ…家に帰れ」と、主はむずかしい方を命じられます(ごまかしようがない!)。その人は罪赦された者として「床を取り上げて…家に帰って行」きます。

 主イエスは、私たちが救われた者として、自分の居場所で生きることを願われます(老人施設で証しする信仰者!)。「罪人のかしら」(讃249番)である者も、「主によりて活」かされるのです。