説教(メッセージ)

2018年9月

2018.9.2


わたしを強くして下さるかたによって

        ピリピ41014


 パウロは、「エパフロデトから、あなたがたの贈り物をいただいて」

と、ピリピ人へのお礼の言葉を述べますが

(→2:25)、困っていても主が助けてくださる、と語ります。

 彼が「大いに喜んで」いるのは、「わたしを思う心が…ついに芽ばえてきた」からであり、これまで「よい機会がなかったから」連絡もなかったことがわかったからです(礼状は心を温める!)。

「一人の祈りの成長が教会全体に伝染する。」(宮島聖会での吉田師の説教!)。

 礼状なのに、パウロは自分が貧しいわけではない、と弁明します。

「わたしは…どんな境遇にあっても、足ることを学んだ」と言い、「貧に処する道…富むことにも…処する秘けつを心得ている」ので、いつも心は豊かだからです。「神の与えたものに満足している者は、その心は決して貧しくない。」(カルヴァン)

 その秘けつというのは、「わたしを強くして下さる方」である主イエスを知っていることです(→東日本大震災でのクリスチャンたちの働き!)。それと同時に大切なのは、「あなたがたは、よくもわたしと患難を共にしてくれた」と、ピリピ人たちの親切に感謝することです(→1:5「福音にあずかっている」)。

 恐れている弟子たちに対して、復活の主は「祝福しておられるうちに…天にあげられ」(ルカ24:51)ました(今もそうしてくださる!)。

ルターが、「神はわがやぐら」(讃267番)と歌って、戦いの中でも力を与えられたように、私たちも主を信じて力強く歩みましょう(→詩46篇→列王下19章の「主の使」)。





 2018.9.9


栄光の富の中から

         ピリピ41523


 手紙の最後で、パウロは改めてピリピ人たちの贈り物(お金や物→Ⅱテモテ4:13)に感謝し、あいさつをし、主の恵みを祈ります。ここには、クリスチャンの美しい交流があります。

 パウロが、「マケドニアから出かけて」アテネやコリントで伝道した時、「物のやりとりをしてわたしの働きに参加し」た事や、「テサロニケでも一再ならず(何度も)…欠乏を補ってくれた」事を、今でも忘れずに感謝します(→Ⅱコリント8:1以下)。

 パウロが願うのは、「あなたがたの勘定をふやしていく果実」です。

「私があなたがたから受ける時に、同様な利益があなたがたに戻って行く」(カルヴァン)のです。その贈り物は、「かんばしいかおり」として、「神の喜んで受けて下さる供え物」です(→創世記8:21「ノアのささげ物」)。「わたしの神は…いっさいの必要を…満たして下さる」と期待し、「栄光が限りなくあるように」と祈るパウロです(贈り物の神学!)。

 エペソの獄中から、彼は「聖徒のひとりびとりに、よろしく」とあいさつし、「わたしと一緒にいる兄弟たち」と共に、「すべての聖徒たち…特にカイザルの家の者たち(ローマ政府に仕える人々→ピリピ教会にも多かった)」からのあいさつを伝えます(信仰者の交流!)。キリストの恵みが「あなたがたの霊と共に」(心の奥まで!)あるようにと祈って終わります。

 神は私たちに、「栄光の富の中から」豊かに与えてくださるのですから、私たちも「天なる喜び」(讃352番)を主から受けて、豊かな歩みをしましょう(→伝道の書11:1「パンを水の上に」)。


 


2018.9.16

 

心の貧しい人たちは

          マタイ5

 使徒マタイ(→9:9)の残したメモを、弟子たちが体系的にまとめた中に「山上の説教」

(5-7章)があり、その最初にあるのが「8福の教え」です。従う者への慰めが語られます(前半の4つ)。

「イエスはこの群衆を見て、山に登り…教えて言われた」とあります(→「祝福の山」)。エルサレムの都の特権階級の人々ではなく、弱い立場の人々(→4:23-25「病気と苦しみとに悩んでいる者」こそ慰めを必要としているのです(日本伝道の可能性!)。

 主が言われる「さいわい」は、普通にハッピーだというのではなく、「あなた(神)の家に住み…ほめたたえる人はさいわいです」(詩84:4)というような信仰的な喜びです。

ベテスダの池のほとりで38年間も待っていた病気の男(→ヨハネ5:5)も、バビロンから帰国して復興に取り残された人々(→イザヤ61:2 東日本大震災被災者たち!)も、主のもとに来ることによって、貧しさと悲しさ(→ルカ6:20以下)から解放されます。

 「柔和な人たち」とは、主イエスがそうであるように、「くびきを負う」(マタイ11:29)ほどに低くなった者たちであり、「義に飢えかわいている人たち」とは、社会の不公平の中で苦しむ者たちです(→ルカ18:3「訴え続けるやもめ」)。彼らも主によって「飽き足りる」(満腹する!)でしょう。

 このようにして、若い日に…造り主を覚え」(伝道12:1)た者幸いです(シニアになっても!)。主は「疲れしわが友、我に来たれ」(讃244番)と招いておられます。




  

2018.9.23

 

あわれみ深い人たちは

            マタイ5:7-12


 きちんと整備された「8福の教え」の後半では、主イエスは「飼う者のない羊(9:36)の羊飼い(→18:12)として、羊たちが本当の強さを持って生きるように励まされます。

 彼らは主のあわれみを受けた者ですから、「あわれみ深い人たち」となるべきです(→18:21以下 一万タラント[6兆円]の借金を免じられた僕)。また、天の父なる神を知った者ですから、「まず神の国と神の義とを求める」(6:33)「心の清い人たち」(シンプソン「シングル・ハート」!)となって、「神を見る」でしょう。

 「平和をつくり出す人たち」とは、大きな力を持って世界平和を実現というのではなく(→4:1-11「の誘惑」でそれを拒否された主)、「平和の君」(ヘンデル『メサイア』)として、神と人との間に平和を作り出された主にならって、私たちも神との平和を宣べ伝え(伝道!)、人間同士の平和を求めるべきです(→ピリピ4:2)。

 クリスチャンとして、「義のために迫害されてきた人たち」は、忍耐すべきです(ペイシェント「患者」!)。主を信じる故に、人々が「ののしり…悪口を言う」ことがある程度でも、「あなたがたより前の預言者たち」(イザヤ、エレミヤ、洗礼者ヨハネ!)と同じランクと見られる私たちは光栄です(→ピリピ1:29)。

 「小事に忠実な人は、大事にも忠実」(ルカ10:10)なのですから、「我らは主のもの」(作者不明の讃美歌354番)と歌いながら、主の羊らしく生きましょう。

 


  

2018.9.30

      

あなたがたは、地の塩

            マタイ51316

  主イエスは、ご自分の羊となった者たちが人々の前でよい証し

(あかしびと)になって欲しいと願われます(五島列島の美しい教

会堂の数々→「隠れキリシタン」の証しの力)。

 先ず、クリスチャンは「地の塩」に例えられます。溶けて姿を消し

ても、食物の腐敗を防ぎ、塩味をつけるように、世の人々に影響を与

えることが出来ます。しかし、「もし塩のききめがなくなったら…人々

に踏みつけられるだけ」になります(死海のほとりの岩塩!)。大切な

のは、塩味を失わないクリスチャンでいることです(葬儀も!)。

 次に、「世の光」に例えられます。「信仰によって照らされて以来、

私たちは皆、光の子である。」(カルヴァン) 光の輝きに個人差は

あっても、「(イスラエルに多い)山の上にある町は隠れることが出

来ない」し、「あかりを…枡の下におく(隠したり消したり)者はい

ない」ように、「燭台の上において…照らさせ」るべきです(小さい

教会も!)。

 最後に主は、「あなたがたの光を人々の前に輝かし」て欲しいと願

われます。「あなたがたのよい行い(新共同訳「立派な行い」)を見て」、

人々が、「天にいますあなたがたの父(なる神)をあがめる」ように

して欲しいのです(自分の栄光よりも!)。その人なりに最善を尽くす

べきです(→デイック宣教師『日本中の人々への光』)。

 主イエスのもとに来て、「その水をわたしに下さい」(ヨハネ4:15)

と言った女性のように、「注げ、命の真清水を」(讃217番)と歌い

つつ、証しするのです。