2018.12.2

 

イエス・キリストの系図

           マタイ117

 

 アドベント(到来→待降節)は、二千年前の最初のクリスマスまで帰って、主イエスの到来がどういうものであったかを考える時です。主なる神は長い時間をかけて救い主をこの世界に到来させられます。

 神はアダムの時から救い主を送ることをお考えでした(→ルカ3章の系図)が、具体的に取りかかられたのはアブラハムの時です(→創世記12:2「あなたは祝福の基となる」)。彼は「イサクの父」となり、その孫の「ヤコブはユダとその兄弟たち(12部族)の父」となります。「ユダはタマルによるパレスとザラの父」とあるのに注目しましょう(創世記38章の彼女の大胆さ!)。そして、ユダ族の中から、ルツの孫である「エッサイはダビデ王の父」となります。

「ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父」(列王上1章のバテシバの知恵!)となり、王国は繁栄しますが、分裂して南王国だけが残ります。ヨシヤのような良い王も現れますが、彼について「バビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父」とあるように、「バビロン捕囚」(BC587年)で国は亡びます。それでも、「ユダの王エホヤキン(エコニヤのこと)」は厚遇されます(→列王下25章)。

 捕囚帰還後(BC538年)は全く王家のようではなく(平家の落武者!)、ナザレの村の庶民となり、その中に「マリヤの夫ヨセフ」が生まれ、やがて「このマリヤからキリストといわれるイエスがお生まれ」になるのです(庶民的!)。「当時、ヨセフとマリヤが親戚関係にあることはよく知られていた」(カルヴァン)ので、王家の血筋なのです。

 主イエスの「系図」の中には神の不思議なドラマがあります。「ダビデの裔(すえ)なる主」(讃94番)が、私たちの救い主であります。

 

 

      2018.12.9

 

 

その名をイエスと名づけなさい。

          マタイ125

 

 「イエス・キリストの誕生の次第」について、マタイ福音書の記者は3人の人物を取り上げます。救い主の誕生に関わるのは、彼らにとって苦しい経験でしたが、とても光栄なことでありました。

 「母マリヤはヨセフと婚約して」いましたが、「まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった」のです(ナザレの「受胎告知教会」)。彼女は信仰的にそれを受けとめる強さを持っています(ヨシュア記2章のラハブの勇気! ナオミとルツのチームワーク!)。

 マリヤが「身ごもっていることが明らかになった」(新共同訳)のを見たヨセフは、「正しい人」であると同時に優しい男なので「ひそかに離縁する」事を考えます。主は天使を遣わして彼に真実を告げ、「彼女は男の子を生む」ので「イエス(ヘブル名のヨシュア)と名づけなさい」と命じられます。「おのれの民を…救う者」となるからです(→Je [主は] hoshua [救う])。「この救いの約束は、信仰によって主の教会の群に入れられるあらゆる人に及ぶ。」(カルヴァン)

 すっかり元気になったヨセフは「マリヤを妻に迎え…子が生まれるまでは彼女を知ることがなかった」と語ります。福音書記者は、この処女降誕は「主が預言者によって言われたことの成就」であったとコメントします。「見よ、おとめがみごもって…その名はインマヌエル(神われらと共にいます)と呼ばれる」(イザヤ7:14)と預言したイザヤの言葉はその時は無視されました(BC734年)。しかし、何百年も後にその預言が成就したのです(イザヤの名誉回復!)。

 主イエスは「いつくしみ深き友」(讃312番)であり、「強く、また雄々しくあれ」(ヨシュア1:9)と励ましてくださる救い主です。





2018.12.16


  ユダヤ人の王として…

           マタイ2

 マタイ福音書では、主イエスの誕生そのものについては簡単に触れるだけで、そのあとどうなったかが詳しく語られます。主なる神は、御子の誕生を世界中の人々に歓迎して欲しいと願われます。

 「イエスがヘロデ王の代(BC37~4年)に…お生まれになった」あとで、「東から来た博士(マゴス→天文学者?)たちがエルサレムにきます。彼らは「ユダヤ人の王」について、「東の方でその星見た」(→民数記24:17「バラムの預言」)ので、「そのかたを拝みに」長い旅をして来たのです(→玄奘の唐からインドへの旅)。「彼らはこの王が将来オリエントを支配すると考えた。」(カルヴァン)

 「ヘロデ王はその話を聞いて不安を感じた」とは、彼がダビデ王家の血筋でなく、エサウの子孫であるエドム人で(→創世記25:30)、自分の地位が危いからです。しかし、「エルサレムの人々もみな、同様であった」のは、彼らのための救い主なのに、王を恐れたからです。

 それでも数人の羊飼たちは歓迎しました(→ルカ2:8以下)。

  「キリスト(メシア)はどこに生まれるのか」とのヘロデの質問に、専門家(祭司長…律法学者たち)は、「ユダヤのベツレヘムです」と明確に答えます。「ベツレヘムよ、おまえは…最も小さいものではない…ひとりの君が出て…イスラエルの牧者となる。」(ミカ5:2)と、南王国の末期の小預言者(大預言者ではない!)が語った言葉が、大きな希望を与えるのです(→「聖誕教会」の「銀の星」)。

 博士たちは「ユダヤ人の王」と言いましたが、やがて世界の王となる御方だと考えていました(→28:19)。私たちも世界中の人たちと共に、「今し来ます天つ君」(讃130番)を心から歓迎しましょう。





 

2018.12.23


幼な子に会い

           マタイ212

 クリスマスの時、御子イエスはベツレヘムの貧しい場所で、寂しい誕生をされます。主なる神は、私たちが御子に対して、輝きを与える者となって欲しい、と願われます(若いスポーツ選手の親!)。

 ヘロデ王は、その輝きを完全に抹殺しようとします(王位を危うくする者は息子でも殺した!)。彼は、「ひそかに博士たちを呼んでの現れた時について詳しく聞」いて、メシアの年齢を計算し、「その幼な子のことを…見つかったら…わたしも拝みに行く」ので知らせて欲しい、と紳士的な言い方をします。しかし、「夢でヘロデのところ

に帰るなとのみ告げ」があり、博士たちは従います(主の守り!)。

 マタイ福音書では星が大きな働きをします(ツリーのてっぺんに飾る星!)。「マタイの言葉からそれは自然の星ではなく、特別な星であったと推論できる。」(カルヴァン) その星は博士たちよりも「先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどま」ってまるで

「ここですよ」と教えているようです。彼らは、「その星を見て、非常な喜びにあふれ」ます(小さな星が大きな喜びを与える!)。

 彼らは、「家にはいって」貧しい母と子を見ても躓きません。大いなる「ユダヤ人の王」であり、「世界の王」である御方を「ひれ伏して拝み」ます。さらに、遠く東の国から持って来た最高級品の「黄金・乳香・没薬」を誕生プレゼントとして贈るのです(→バティスタ・マイノ「三賢者の来訪」→暗い家の中で明るく光る宝物の輝き)。

 博士たちが「母マリヤのそばにいる幼な子」に会えたのは、星の導きのおかげでした。私たちの教会は、「その星しるべに…メシヤを尋ねて」(讃103番)集まる人たちのための、小さな星になりましょう。

 

 

 

 

2018.12.30

 

 

 イスラエルの地に行け

         マタイ21323

 

 主イエスは、「人の子にはまくらする所がない」(マタイ8:20)と嘆かれました。大人になってからだけではなく、生涯の初めから、人間としての苦しみを経験して、私たちの救い主となられたのです。

 博士たちが帰ったあと、主なる神はヨセフに、「エジプトに逃げなさい」と命じられます。ヘロデの追求を逃れるために、難民のような生活をされます(シリアのクリスチャンたち!)。苦しい生活の中で親子の愛情が育まれます(→ヨハネ19:27)。神は、「エジプトからわが子を呼び出」(ホセア11:1)す、と約束されます。

 一方、「博士たちにだまされたと知って」、ヘロデは「ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子」を残忍にも殺してしまいます(津波で無差別に犠牲になった人たち!)。ベツレヘムの近くのラマから連れ去られるバビロン捕囚の民を見て、墓の下からラケル(ヤコブの妻)が、「その子のためになげいた」(エレミヤ31:15)のような光景です。「御子を、初めから十字架の試練の下に置かれたのは、神の御計画であった。」(カルヴァン)

 圧制者ヘロデが死んだ時、ヨセフはイスラエルに帰りますが、「アケラオ(ヘロデより残忍)が…(都のある)ユダヤを治めている」と聞いて断念し、彼らの故郷のナザレに住むことを選択します。その結果、主は「ナザレ人(びと)と呼ばれる」ことになりますが、それはイスラエルの中でも差別される地域でした(→ヨハネ1:46)。

 主は、「わたしたちの弱さを思いやることができないようなかたではない」(ヘブル4:15)ので、優しい「ひとみ、まなざし」をもって、「友よ、帰れ」(讃243番)と招いてくださる救い主です。