2019.9.1



■「山にのがれなさい

          創世記1938


 アブラハムの執り成しにも関わらず、結局、ソドムは滅ぼされることになります。そういう中でも、主なる神はロトを覚えてくださり、喜んで従わない者でも何とかして救い出そうとされます。

 2人の天使に、ロトは「どうぞしもべの家に…」とアブラハムと同じようにもてなします(→18章)が、心がこもっていないようです。町の人との関係も、「この男は…よそ者であるのに…さばきびとになろうとする」と、反感を持たれています。彼の信仰的な感化力は、アブラハムほど浸透していません(「一人が一人を」が大切!)

    天使はロトに「あなたの身内の者を、皆ここから連れ出しなさい」と言いますが、「(近所に住む)むこたちには戯れごと」と思われる始末で、結局、「かのふたりは彼の手と、その妻の手と、ふたりの娘の手を取って」(子どものように!)連れ出します。「山にのがれなさい」と言われても、ロトは「あの町をごらんなさい」と近くのゾアルまでしか行かないで、辛うじて助かります(→Ⅱペテロ2章「非道な者に悩まされる義人ロト」)。「彼の祈りは、信仰の泉から発してはいるが、肉の欲の泥で濁らされている。」(カルヴァン)

    とうとう「硫黄とによってソドムは滅ぼされ、4人家族の中の「ロトの妻は…塩の柱になった」という話です(→ルカ17:3)。しかし、「神はアブラハムを覚えて…」、やがてロトの子孫の中から「モアブの女ルツ」(ルツ記1章→マタイ1:5)を起こされます。

 ロトは「低地」ではなく「山(高地)」に逃れるべきでした(東日本大震災の教訓!)。「我に来よと主は今」(讃517番)私たちを招いておられます。信仰の目を上げて、主のもとに帰る私たちです。


2019.9.8



■「イサクと名づけた

          創世記21

  「来年の春…サラには男の子が生れているでしょう」(18:10)と言われた時が来て、アブラハムもサラも喜んで笑います。主なる神は私たちの心を喜びで一杯にしたいのです。

 「主は、さきに言われたように…告げられたように」と繰り返し「サラを顧み訪れ)…行われた」とあります。主が約束されたことは、必ず実行されるのです(→サムエル記上1章「サムエルを産むハンナ」の場合も「主が彼女を顧みられた」とある!)。「年老いたアブラハムに男の子を産んだ」というのも、主がそうされたのです。

   アブラハムが喜んだのは当然ですが、彼は「サラが産んだ男の子の名をイサクと名づけ」ます(→17:19)。さらに「8日目にその子イサクに割礼を施し」ます(→17:12)。「か弱い幼児の体に傷をつけることは辛かったが、人間的感情を差し置いて、神の御言葉に従ったのである。」(カルヴァン) 彼は「イサクが生まれた時100歳であった」のですが、「年寄り子」のようではありません(秀吉と秀頼!)。

 サラは素直に喜びを表現します。「神はわたしを(喜びの笑いで)笑わせてくださった」(→18:12)と言い、さらに「聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」と喜びます(→ローマ12:15「喜ぶ者と共に喜び」)。「サラが子に乳を飲ませるだろう」とは誰も思わなかったのに、今そうしている自分がいます(「頬っぺたをつねる」!)。彼女はすっかり明るい母親になっています(→「明るい家庭」)。

 「イサク」は「笑う」という意味ですが、そういう自分の名前を好きになれたでしょうか(命名のむずかしさ!)。彼もまた両親と共に、「ここ(地上も)神の御国」(讃90番)と喜んで歌うのでしょう



2019.9.15



■「天からハガルを呼んで

          創世記2121

 イサクの誕生の話のあと、イシマエルの追放という暗い話が続きます。そうなる理由があるのですが、そうして追い出されて苦しむ者にも、主なる神は救いの手を差し伸べ、生きる道を与えられます。

 「イサクが乳離れした日(3年後?)にアブラハムは盛んなふるまいを設け」て祝います。その時、すでに16歳くらいになっていたイシマエルが「自分の子イサクと遊ぶ(文語訳「笑ふ」)のを」サラは見逃しません(→ガラテヤ4:29「迫害した」)。「イサクと共に世継となるべき者ではない」ので、その子と母とを追い出すように、と夫に迫ります。「彼女の舌も精神も、聖霊の隠れた刺激によって支配されていた。」(カルヴァン) 放置できないのです(いじめの問題!)。

 アブラハムは父親の情として、イシマエルのために「非常に心配」しますが、神は「サラがあなたに言うことはすべて聞きいれなさい」と命じられ、彼も「一つの国民とします」と約束されます。心を決めた彼は翌朝早く起き、「パンと水の皮袋」という質素な旅支度をして2人を送り出します(祈りをもって主の御手に委ねる!)。

 彼らがカナンの南にある「ベエルシバの荒野をさまよ」っている間に、「皮袋の水が尽き」、病気になったイシマエルを抱えて、ハガルは絶望します。その時、神は「わらべの(泣く)声を聞かれ」ます。そして「神がハガルの目を開かれ…井戸のあるのを見」て命拾いをし、彼は「荒野に住んで弓を射る者」となり、妻も迎えます(→25章)。

 「悪い者の上にも良い者の上にも」(マタイ5:45)太陽をのぼらせ雨を降らせてくださる天の父は、信仰の弱い者でも助けられます。

 私たちは安心して「み恵み豊けき主の御手」(讃294番)に頼ります。



2019.9.22


■「神はあなたと共におられる

          創世記212234


 アブラハム一家が家畜と共に移動する中で、ベエルシバに滞在した時のエピソードです。ゲラル王アビメレクとの間にトラブルがありますが、アブラハムは賢く平和的な解決をして、主を証しします。

 アビメレクは、自分の支配地域へ移動して来たアブラハムを警戒し、彼と契約を結ぼうとして訪ねて来ます(→20章)。大きな群れをて、家庭的にも信仰的にも恵まれた彼を、「あなたが何事をなさっても、神はあなたと共におられる」と尊敬しつつも、「今ここでわたしをも…欺かないと…誓ってください」と申し出ます。それに対しアブラハムは「わたしは誓います」と、立派に対応します(→Ⅰペテロ2:12「異邦人の中にあって、りっぱな行いを…」)。

 アブラハムはこの機会を逃さず、「アビメレクの家来たちが、水の井戸を奪い取った」問題を解決しようとします(「アブラハムの井戸」の遺跡!)。「雌の小羊七頭」を「わたしがこの井戸を掘ったことの証拠」として差し出し、「ふたりは契約を結んだ」ので、この問題は解決します(→マタイ10:16「へびのように賢く…」)。

 この平和的解決をした場所は「ベエルシバ(誓いの井戸)」と呼ばれるようになり、アブラハムは「一本のぎょりゅう(御柳)の木」を記念樹として植え、「永遠の神、主の名を呼」びます。「彼は地上の王にも、新しく結んだ契約にも依り頼むとは言わない (カルヴァン)

彼は「平和をつくり出す人」(マタイ5:9)で    

信仰のない人たちから見ても、アブラハムは「神は…共におられる」人です。「たましいの牧者…のもとに立ち帰った」(Ⅰペテロ2:25)私たち、「我らは主のもの」(讃354番)と喜んで歌うのです。

 

2019.9.29



■「愛するひとり子イサク

          創世記22:112


 イサクが成長した時、主なる神が彼をアブラハムの手から取り去ろうとされます。どんなに大切なものを取り去られても、なお主を信じて従うかを問う、信仰の試錬(テスト)です(その前半)。

 「神はアブラハムを試み」られます。神は先ず、「アブラハムよ」と呼びかけられ、彼は「ここにおります」と答えます(信頼関係の大切さ!)。その上で、「あなたの子…イサクを連れて…彼を燔祭(焼き尽くす献げもの)としてささげなさい」と命じられます(特別な試錬!)。やがて神ご自身が経験される苦しみを、アブラハムがここで味わうのです(→ヨハネ3:16「神はひとり子を賜った…」)。

 翌日、「アブラハムは朝早く起きて」(→21:14「イシマエルの追放)、行動を開始します。「彼は神が真実な方であると確信していたので、自分にはわからない問題を、神の摂理に委ねた。」(カルヴァン)

 イサクを連れて、「神が示された所」(「モリヤの山」→エルサレムの神殿跡にある「岩のドーム」)まで3日かかって行き、「手に火と刃物とを執って」一緒に山に登ります(→ヘブル11:19)。

 そこに祭壇を築き、彼は「イサクを縛って…殺そうと」しますが、神は「わらべを手にかけてはならない」とストップされ、「ひとり子をさえ…惜しまないので…神を恐れる者である」と認めて、彼の信仰のテストは合格とされます(せめて彼の「爪の垢でも!)。

  「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない」(Ⅰコリント10:13)と言われますが、アブラハムの場合は「世の常」とは言えないでしょう。主は私たちには「耐えられないような試錬」を与えられないので、「主よ終わりまで」(讃338番)と歌って従うのです。