2023.2.5



汚れるに任せられ…」

ローマ1:2432


 人間の罪は先ず信仰の問題に現れましたが、それだけでは終わらず、生活の問題にまで及んで来ます。エデンから追放された人間は、神から離れて生きようとし、神はその手を離されますが、帰りを待たれるのです。

 人間は神の霊を吹き込まれて「生きる者」(創世記2章→霊的存在)になったのですが、神は「彼らが心の欲望によって汚れるに任せ」られます(親の手を振り払う子ども!)。その結果、人間は動物的になって「互いにその体を辱める」ようになり、「造り主の代わりに造られた物を拝む」に至ります(→イザヤ44章「バビロンの偶像造り職人」)。パウロは「造り主こそ…ほめたたえられる方」と叫びます(他所の親を羨む子!)。

 性の領域でも、神は人間を「恥ずべき情欲に任せ」られます(現代のLGBT問題!)。「女は自然の関係(男と女の結婚!)を…替え」(レスビアン)、「男どうしで恥ずべきことを行い」(ゲイ)ます。「この性的な倒錯に捕らわれている人々を思いやるべきである。」(クランフィールド)

 社会生活でも、神は人間を「無価値な思いに渡され」ます。「パウロは…すべての人が逃れられない悪徳表を示す。」(カルヴァン) その悪徳は①「あらゆる不正、邪悪、貪欲、悪意」という内面的なものから、②「妬み、殺意、争い、欺き、邪念」という他者への悪意、③「陰口を叩き、悪口を言い、神を憎み、傲慢になり、思い上がり、見栄を張り、悪事をたくらみ、親に逆らい」という行動、④「無分別、身勝手、薄情、無慈悲」という心の問題に及びます(クリスチャン生活の定規!)。

 主なる神は仕方なく人間の手を離されましたが、帰るのを待っておられます(→ルカ15章「放蕩息子の帰りを待つ父親」)。神の御子もまた「帰れや、我が家に」(讃517番)と呼びかけてくださるのです。








2023.2.12




すべて善を行う者には…」

        ローマ21-16


パウロは人間の罪の問題を語りましたが、それを聞いてもユダヤ人クリスチャンたちは、自分は大丈夫と思うかも知れません(兎と亀!)主なる神は、誰であっても悔い改めて善を行う者になって欲しいのです。

ユダヤ人たちは「他人を裁く」のですが、「裁くあなたも同じことをしている」のです(目くそ鼻くそ!)。「パウロは今や小粒の聖人たちを攻撃する。」(カルヴァン) 「神の裁き」は必ず下されますが、「その豊かな慈愛と忍耐と寛容」の故に待っておられるのですから、早く気付いて欲しいのです(→マタイ7章「他人の目のおが屑と自分の目の梁」)。

「神はおのおのの行いに従ってお報いに」なるので、ユダヤ人という身分は関係ありません。ギリシャ人(異邦人でも「耐え忍んで善を行い…朽ちないものを求める者には、永遠の命」が与えられ、ユダヤ人でも「不義に従う者には、怒りと憤り」が下されます。「神は人を分け隔て(新改訳「えこひいき」)されません(→「ティーチャーズ・ペット」という歌)。主はペトロにそれを示されます(→使徒10章「汚れた動物」)。

 ユダヤ人は「律法を聞く者」として、異邦人先輩ですが、大切なのは「律法を行う者」であることです。異邦人のクリスチャンたちは律法については初心者ですが、ベテランのユダヤ人たちよりも真面目に「律法の命じるところを自然に行」っています(自動車の運転!)。そのことをパウロは「私の(自家薬籠中の)福音)によれば」と言って、「神が…裁かれる日に明らかになる」(→マタイ25章「小さな親切」)と断言します。

 主はすべての人間に「善を行う者」になって欲しいのです(→ルカ10章「善いサマリア人」)。「牧(かいぬし)わが主よ」(讃354番)と呼んで主に従う者たちは「今よりみ旨をなさしめ給え」と歌うのです









2023.2.19

 

「喜びをもって主に仕えよ」

        詩編 100 15

(小栁均牧師の説教要旨)

詩編100編は、全世界の人が、天と地をお造りになった神への感謝に招かれていることを教えています(1節)。次に、どのように神に感謝するのかを教えています。「喜びをもって主に仕えよ。」(2節、口語訳)聖書で「仕える」という言葉は「礼拝する」という意味でもあります。これは神の民に与えられた最も価値ある、この上なく喜ばしい特権です。

礼拝は喜びですから、「喜び歌いつつその前に進み出よ。」(2節)と言われています。「その前に」とは、神の臨在へと導かれていくことです。被造物に過ぎないものが造り主に、罪深い者が最も聖なるお方に、近づくことが許されるのです。人の霊は神の臨在に触れて、初めて満たされます。

しかし、なかなか感謝できない私達に、この詩編は、感謝することのできる根拠を教えています。「主が私たちを造られた。」(3節)神様に望まれて生まれてきたのです。であるなら、私達の人生には目的があり意味があります。そのことが分かるだけでも、大きな感謝です。しかし、この言葉には、他の意味もあります。これは、神の救いです。主イエスを信じる者を、神は聖霊によって新しく造り変えてくださいます(エフェソ2:10)。

次に、「主の民、その牧場の羊。」とあります。羊飼いが、いなくなった一匹を見つけ出すまで捜し求めるように、主が私たちを守り、導き、愛してくだるのです。「その牧場の羊」が、「主のもの」とされているということです。羊の群れが、羊のものではなく羊飼いのものであるように、私達が私達のものでなく主のものとされていることが、どれほどの慰めであり、どれほどの平安であり、恵みでしょうか(ハイデルベルク信仰問答問1)。

主のものとされた私達は、主が、全ての悪しきものから私達を守ってくださり、私達を養ってくださり、私達の歩みを導いてくださるのです。主によって「主のもの。主の民、その牧場の羊」とされたことに感謝します。








2023.2.26

心に施された割礼…

        ローマ2:17-29


パウロはユダヤ人クリスチャンに対して名指しで批判します。自分もかつては罪がないと思っていたので、余計に厳しく語らざるを得ません。彼らが思い上がらないで、心の中まで割礼を受けた者になって欲しいのです。

「あなたはユダヤ人と名乗り…律法に教えられて何が大切かをわきまえている」と律法の知識を誇りとし、「盲人の案内者、闇の中にいる者の光…未熟な者の教師」であると自負しています(→マタイ23章「ものの見えない案内人」)。それが悪い意味の誇りになっているのが問題なのです(→ルカ18章「うぬぼれ…他人を見下す」→「豚もおだてりゃ木に登る」)。

パウロは彼らに「他人に教えながら自分には教えない」として、「盗むな…姦淫するな」というような律法を破り(→マタイ5章「私(主イエス)はあなた方に言う」)、「偶像を忌み嫌いながら、(異教の)神殿を荒らす」(→使徒19章「偶像の売り買いをするユダヤ人」)者となって「律法に背いて神を辱めて」いると指摘します(内部告発!)。「神の名は…侮られている」(イザヤ52章)とある通りです(バビロン捕囚に至るユダヤ人の罪!)。

彼らはアブラハム以来の割礼を誇りますが(→創世記17章)、「律法に背くなら…割礼を受けていないのと同じ」とパウロは断言し、「体に割礼を受けていなくても律法を守る者(異邦人クリスチャン!)が、あなたを裁く」とまで言います。「霊によって心に施された割礼こそ(真の)割礼なのです(→クリスチャンにとって洗礼は入学式)。「洗礼の水だけに信頼を置くなら…洗礼の目的は失われる。」(カルヴァン)

「人は目に映るところを見るが、私は心を見る」(サムエル上16章)と主は言われます。パウロ自身、「罪人(つみびと)の頭」(讃249番→Ⅰテモテ1章)ですが、罪赦されて感謝しているのです。