「私たちの主イエスの恵みが…共に…」
ローマ16:17-27
パウロは長い手紙を書き終える時になって、思い出したことがありました。それは偽教師たちのことです。彼らを警戒するように教え、コリントの信者たちからの挨拶を伝えて、最後に神を賛美するのです。
当時の教会には巡回教師たちがいて「分裂やつまずき」を引き起こしていたので、パウロは「彼等から遠ざかりなさい」と命じ、彼らは「キリストに仕えないで自分の腹に仕えている」と言います(→フィリピ3章「十字架の敵」)。「あなた方の従順は皆に知られている」ことを喜んでいますが、「善にはさとく、悪には疎く」(→マタイ10章「蛇と鳩」)あって欲しいのです(→ガラテヤ3章「パウロのトラウマ」→老婆心)。
次に彼は「私の協力者(口語訳「同労者」)テモテ」をまず紹介し、ユダヤ人仲間の三人組である「ルキオ、ヤソン、ソシパテロ」、それに「私と全教会との家主ガイオ」、「(コリント)市の会計官エラスト」と信者の「クアルト」も紹介します。「この手紙を筆記した私テルティオ」にも挨拶させます。「彼が付け加える数々の挨拶は…所を遠く隔てている信仰者同士の間の結合と友愛を目的としている。」(カルヴァン)
最後に彼は「神は、私の福音…によって、あなたがたを強める(→1章「力づける」)ことがおできになります」と神の力を賛美し、「この福音は…秘儀を啓示するもの…すべての異邦人を信仰による従順へと導く」ものであるとして、「この知恵ある唯一の神」と、神の知恵の深さを賛美するのです(→11章「神の(慈愛)の富と知恵と知識の深いこと」)。
「私たちの主イエスの恵みが…」と、パウロは「短いけれど十分な祝祷」(松木治三郎)でこの手紙を締めくくります。「我が身の望みはただ主にかかれり」(讃280番)と歌いつつ、この御方に頼る者は幸いです。
「ヨセフのことを知らない新しい王…」
出エジプト記1:1-14
新約の「ローマ書」の後、旧約から説教します。「ヨセフ物語」の続きとして「モーセ物語」は書かれています。エジプトに移住したイスラエルの民は、新しい王の下で苦しみますが、主なる神は彼らを祝福されます。
「ヤコブと共に、それぞれ家族を連れてエジプトにやって来たイスラエルの子ら」は、「全部で七十人で、ヨセフはすでにエジプトにいた」とあります(→創世記46章「総勢七十名」)。ヨセフがゴシェンの地を選んで彼らを住まわせたのは賢明であって(→創世記45章「ゴシェンの地に住んで」)、イスラエルの人々は…国中に溢れた」のです(→家康と江戸幕府)。
約400年後、「ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに立ち」ます(ヒクソス人王朝→エジプト人王朝)。この王(第19王朝のセティ1世?)は、外国人であるイスラエルの民を恐れて、「彼らが増えないようにしよう」と考えます。「戦いが起こると…その地から攻め上って来る(別訳)」ことを恐れるのです。「王たちが隣国を恐れる時、その恐れが彼らを不安で一杯にして、地上を血で覆うことさえ躊躇しなくなる。」(カルヴァン)
王の命令で「エジプト人は…(イスラエルの民に)重い労役を与えて苦しめ…ファラオの倉庫の町、ピトムとラメセス(皇太子の名前?)を建設」させます。「重労働で彼らの生活を追い詰め…労働をすべて厳しいものにし」ますが、「エジプト人がイスラエルの人々を苦しめれば苦しめるほど、彼らは増え広がった」という結果になります(→Ⅰコリント10章「試練と共に…逃れる道をも備えてくださる神」)。
エジプトの王朝が代わって、今やイスラエルの民には逆風が吹いて来ています。しかし、「神が味方なら」(ローマ8章)大丈夫です。「主よ、御手もて引かせ給え」(讃285番)と歌いつつ、主に委ねて歩む者は幸いです。
「ほかの福音はない」
ガラテヤの信徒への手紙1:6―12
私達は、ただ主イエスの十字架と復活という御業によって救われました。ただ神様の恵み、憐みによって救われたのです。であるのに、いつの間にか、神様の導きや力、神様の御手に信頼するよりも、自分の熱心さや努力によって信仰生活を保たなければならないと考え始める。神様の恵みだけでは、何となく頼りないと思う。もっと他の、目に見える、頼りがいのありそうなもの、自分が救われていることを実感できる何かを求め始める。
しかし、それらは本当に頼りがいのあるものなのか。それらに頼っていると、自分の力に頼れない時は、救いの確信まで失うことにもなりかねません。それらは、頼りがいがありそうに見えて、実は、私たちの信仰を不安定にするものです。むしろ、ただ神様の恵みにより、信仰によって救われる、という福音こそ、私たちの信仰に、確固たる確信を与えるものです。
パウロが、この手紙で戦っているのも、そのことです。パウロが伝道したガラテヤの諸教会に、「救われるためには、主イエスを信じるだけでは足りない。割礼や律法を守らなければ。」と教える人々が来たのです。パウロは、ガラテヤの諸教会が「ほかの福音に移って行こうとしていることに、私は驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけでは」(6-7節)ありません。主イエスの十字架と復活によって救われる、これを信じる信仰によって救われるというのが福音です。しかし、これに加えて、割礼や律法を守らなければ救われないというのであれば、それはもはや福音とは言えないのです。それは神様の恵み、憐れみによって救われるのではなく、自らのよき業によって救われるということだからです。そして、そのことの中に、キリストを頼らず自らを頼り、神様を誇らずに自分を誇ろうとする罪があります。
主イエスを信じるということは、主イエスを生ける神として信頼し、この方に全てを委ねることです。
「モーセと名付けて…」
出エジプト記1:15―2:10
エジプトの王朝が代わって、イスラエルの民に対して厳しい政策をとるようになります。その王(ファラオ)は男の子を殺すように命じるのです。民は苦しみますが、信仰による知恵を働かせて強くなります。
「エジプトの王はヘブライ人(「放浪者」)の助産婦たち(「シフラとプア」)に、「ヘブライ人の女の出産を助けるとき、お産の台(ストール)を見て、男の子なら殺し…」と恐ろしいことを命じます。しかし、彼女たちは「神を畏れていた」ので、命令に従わず、「ヘブライの女は…丈夫で…」と上手に言い逃れをし、「神は…恵みを施され」ます(信仰の知恵!)。
ファラオはさらに「男の子は一人残らずナイル川に投げ込め」と命じます。その頃「レビの家のある男(アムラム)が、レビの娘(ヨケべド)をめとり」ます(→6章)。男の子が生まれて、「その子を見ると、愛らしかったので、三か月間隠し」ますが、「パピルスの籠を用意し…ナイル川の…水草の茂みに置き」ます(→ヘブライ11章「神の御手に委ねる信仰」)。
「その子の姉(→15章「女預言者ミリアム」)が見ていると、「ファラオの娘が…その籠を見つけ」ます。王女は「この子はヘブライ人の子です」とわかっていても「不憫に思って」助けようとします。ミリアムは「この子に乳を飲ませる乳母を…」と申し出て、「母親は赤子を引き取り、乳を飲ませ」ますが、「その子が大きくなると…ファラオの娘の息子(養子)」になります(→カルヴァン「神の隠された摂理」→エフェソ3章「私たちの思いや願いをはるかに超えてかなえてくださる神」)。
ファラオの娘は「モーセ(私が水から引き出した)」と名付けますが、神は彼を「民を引き出すもの」とされます。「信仰こそ旅路を導く杖」(讃270番)と歌いつつ、その杖にすがって強く歩む者は幸いです。
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